August 23, 2024 | Architecture, Design
白く端正な箱型の外観。吹き抜けの居間と、連続する5層のスキップフロア。日本のモダニズム住宅はここから始まった、と言っても過言ではない〈土浦亀城邸〉が、東京・南青山〈ポーラ青山ビルディング〉の一角にお引越し。その魅力を、移築・復原に尽力した建築家の安田幸一さんに聞きました。
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〈土浦亀城邸〉は、1935年(昭和10年)の竣工で、戦前・戦後を通して活躍した建築家、土浦亀城が30代の後半に建てた2軒目の自邸にあたる。現存する日本のモダニズム住宅の中で最も古く、また傑作として名高く、土浦が亡くなる前年の95年、東京都指定有形文化財に。99年には近代建築の保存活動を行う世界的な組織「DOCOMOMO JAPAN」の最初の20選にも選ばれている。
そんな日本住宅史の至宝が、2024年8月、東京・南青山に移築。まるで時空を超えてきたかのような、竣工当時の姿で現れたのだから驚きだ。注目したいのは、この移築プロジェクトが保存や改修ではなく「復原」を目的に進められたこと。移築・復原に尽力した建築家、安田幸一さんは、まずはこの家が戦前の、1935年の日本に建ち上がったことの凄さを改めて感じてもらいたい、と言う。
「箱型の外観も吹き抜けの居間を中心とした立体的な空間の繋がりも、今は当たり前に見えるかもしれないけれど、建った当時の世情や周辺環境を考えれば、いきなり宇宙に行く、くらいの飛躍。1930年代といえば、畳敷きの日本家屋が当たり前ですから。この家の実現には、相当の熱量が必要だったはずです。土浦は、その飛躍をちゃんと遂げきった。根底にあったのは、これからの日本の住宅文化の基石になるのだ、日本に根付くモダニズムを作っていくのだ、という強い思いだったのではないでしょうか」
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現地調査がスタートしたのは2018年。復原・移築の完成まで、実に6年もの年月をかけた。
「建物の実測だけではなく、家具や調度品、引き出しの中の日用品まですべて記録するなど、土浦夫妻の生活様式にまで踏み込んだ調査をしました。どういう食器がどう並んでいたのか、とかね。この家の幸運はいくつもあるけれど、昭和初期に建った家に、同じ人がずっと住んでいたこと、夫妻が亡くなったあとも、家事手伝いとして共に暮らした中村常子さんが、家具も資料も、何もかも、大切に守り残したこと。それは本当に、極めて稀なことです」
当初は、元の敷地での保存も模索したと言うが、あまりにも躯体が痛んでいたこと、本格的な調査のためには解体し組み立て直す必要があることなどから、移築へと舵を切り、その後も「極めて稀な」幸運が味方した。
「僕が設計していた〈ポーラ青山ビルディング〉に、丁度いいスペースがあって、接道からの高低差も元の敷地とよく似た1.5メートル。実は、土浦さんがご存命だった頃に、東京都小金井市の〈江戸東京たてもの園〉に移築するという話もあったのだけれど、諸事情で頓挫しました。なので、ここにぴったりハマったのは運がよかった」
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土浦亀城は、1918年(大正7年)に東京帝国大学工学部建築学科に入学。在学中、帝国ホテルの現場の図面作成に携わり、フランク・ロイド・ライトと出会う。大学卒業後に妻・信子と共に渡米。ライトの事務所、タリアセンで約3年間働いた後、帰国する。
ライトの事務所の同僚には、のちに〈カウフマン邸(砂漠の家)〉などを手がけるリチャード・ノイトラがおり、ノイトラと親しかったルドルフ・シンドラーからも欧州のモダニズムについて学んだという。世界へと目を向け、帰国後もオープンカーに乗ったり、自宅でダンスをしたりしたという逸話からは、華やかなモダンボーイのイメージが浮かび上がる。だが土浦は「真面目で実直な建築家だった」と安田さん。
「もちろん当時としては先進的な、“モダンボーイ”だったんでしょうけど、土浦邸の調査を通じて思ったのは、物をとても大切にされていたし、無駄なものを持ち込まず、シンプルに暮らすことを心がけていて、いたって真面目」
何よりも、建築家としての「実直さ」、そして頑固さは、驚くばかりだと言う。
「土浦邸は1辺が24尺の立方体で、全体が2尺と3尺のグリッドシステムで構成されています。そのシステムを追求するために、柱すらズラしている。普通はここまで徹底しない。できない。建築家はみんな理想を追い求めるんですけど、現実の壁を前に引き下がらずをえないこともある。でも土浦はこの家の設計において、一歩たりとも引き下がっていない。相当な頑固ですよ。この家は、彼が理想を常に追い求めていた人だったということを、立証していると思います」
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土浦の頑固なまでの徹底ぶりを安田さんが感じる部分には「建物も家具もエッジをすべて丸くしていること」もある。
「外壁もそうなのですが、内部は特に、全てにおいてエッジはアール。なぜ、土浦は全ての角を丸くしたのか。それは、ヒューマンなモダニズムを求めていたからではないでしょうか。そこを曖昧にせず、徹底している。だから空間が優しく感じられる。僕も建築家として頑固なところがありますが(笑)、ここまでやりますか、と。でも、物を作る人にとって、曖昧にしない、ブレない、って大事です。この家に90歳を超えるまで住み続けたんだから、その信念は生涯変わらなかったのでしょう。自分が追い求める理想に、確信を持っていたんだと思います」
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復原・移築を手がけるにあたり、安田さんが最も注力したのは、建築家としての土浦の「心を読む」こと。プロジェクトには、東京工業大学の山﨑鯛介氏や長沼徹氏ら歴史考証の専門家も加わり、内壁を1層づつ削ってオリジナルの塗装を突き止めるなど、丁寧な検証や「裏取り」が繰り返されたが、どうしても「解らない」部分が出てくることも。
「そういうときは、元の建物ととともに、建築家の心を読まなければいけない。土浦だったらどうしただろう、と本人の気持ちになって、検証では答えが出せない部分を埋めていくことが、難しさであり面白さでもありました。書物を読み込んだり、周辺にいた人たちへの聞き取りをしたり。極端な言い方をすると、役者が役の人になりきるような、そういう感覚に近いかもしれません」
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「考え続け、悩み続けたところは多々ありますが、ひとつ、印象に残っているのは、吹き抜けの居間の天井面が、移築前の状態では2階の寝室の鴨居よりも下がっていたんですよね。寝室から、天井面の小口が見えていた。通常の“保存”だったら、現状のまま、下がったままにするのでしょう。でも、建築家だったら、こんなにも理想を追求した土浦亀城だったら、絶対に面は揃えるはず。諦めずに調査を重ねたら、天井のたわみが原因で下がっていたことがわかり、結果的に面を揃えて上げました」
そうして現代に蘇った〈土浦亀城邸〉は、眩いばかりの輝きで、住むことへの喜びがひしひしと伝わってくる。
「夢がありますよね。個人的には、90年近く前に建った住宅が、今のモダニズムより良かった、ということに、悔しさを感じるほどです。この家が、1935年の日本に建ち上がったことの凄さを改めて感じてもらいたい、と最初に言いましたが、現代の目で見ても圧巻。それは本当に凄いことです」
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