February 5, 2022 | Architecture, Design, Travel | casabrutus.com
長らく数寄屋大工・平田雅哉単独の仕事だと思われてきた〈大観荘(たいかんそう)〉の建築。建築家・村野藤吾が設計に関わっていたことを建築史家の笠原一人さんが突き止めた。発見までの経緯と意匠の「村野らしさ」、そして村野と平田の関係について聞いた。
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熱海の海を見下ろす温泉旅館〈大観荘〉。画家の横山大観がしばしば訪れたことからこの名がつけられたという由緒ある宿だ。こちらの建物は、数寄屋大工の平田雅哉が単独で設計と施工を担ったとされてきた。しかし建築史家の笠原一人さんの調査により、村野藤吾も設計に関わったことが判明した。
発見の経緯は、図面を手がかりに現地に赴き、部屋の構成や寸法を確認し、村野と平田の作風の違いから誰の手によるものかを推測していくというもの。まるで探偵のような発見に至るプロセスと、〈大観荘〉のどの部分に誰の作風があしらわれているのかを語ってもらった。
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──〈大観荘〉に村野藤吾が関わっていることを発見したきっかけを教えてください。
笠原 きっかけは2015年3月、私が所属する京都工芸繊維大学の収蔵資料をベースとする展覧会『第13回村野藤吾建築設計図展』に展示した1枚の図面でした。右下に “熱海中山邸” とあり、つまり中山製鋼所の創設者・中山悦治の熱海別邸の図面です。熱海別邸が現在、温泉旅館〈大観荘〉になっているということはわかっていたので、実現したのかどうか確認してみようと同年の11月、図面を持って行ってみたのです。
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── 現地では、どんな調査を?
笠原 図面と照らし合わせながら、建物を確認しました。〈大観荘〉は、1940年竣工の熱海別邸を改修し、48年に旅館として開業したものです。そこにさらに大阪の数寄屋大工である平田雅哉が設計した建物が増築され、現在に至る〈大観荘〉の原型ができています。
そこで最初に竣工した建物である本館を確認したところ、西端にある1階と2階の部屋の構成や大きさ、配置が村野の図面とほとんど同じでした。そして1階の「大観の間」と呼ばれる特別室の床の間を見て、村野が関わったことをより強く確信しました。
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── なぜでしょう?
笠原 床の間の意匠に、平田雅哉はまずやらないであろうデザインがあったのです。「狆潜り(ちんくぐり)」ってわかりますか? 床の間と、違い棚がある部分との間は、腰壁のようなもので区切られています。その腰壁の下にある窓のような部分を、狆潜りと言います。その小さな窓のような部分がゴシック風の、先が尖ったアーチ形だったのです。村野は〈北國銀行 武蔵ヶ辻支店〉のファサードに三連のアーチを用いるなど、自身の設計にゴシックのモチーフをよく取り入れていました。
── それが平田雅哉ではないと言えるのは?
笠原 平田の当時の仕事に、そのような意匠はありません。平田は大阪の、もっと伝統的な志向の数奇屋大工で、西洋由来の様式のモチーフは使いません。やるなら古風な数寄屋の意匠でデザインするはずです。
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── 他に村野の意匠だと感じられた部分はありますか?
笠原 同じく「大観の間」の広縁(ひろえん)もそうです。平瓦のようなものを敷き詰めた土間形式、つまり素足ではなく土足で使うスペースとしてデザインされています。洋風の使い方を想定しているんですね。この土間形式の広縁は、当時、村野が設計する和風住宅によく取り入れていたものです。一方で、平田が単独で設計した当時の和風住宅には、私が調べた限りでは見つかりませんでした。
──ランプや天井もモダンな印象です。
笠原 照明はランプのような吊り下げ式。逆三角錐を用いた洋風のデザインで和風にも合いますが、日本の伝統的な照明とは異なっています。そして天井が市松状になっていますね。木目を縦横交互に並べ、段差をつけた張り方。これ、村野がよくやるんです。「大和張り(やまとばり)」という、細長い板を段差をつけながら張る伝統的な手法があるのですが、それを村野は〈志摩観光ホテル〉ロビー天井などの多くの自作で用いています。こちらの天井は市松状にアレンジされているので、大ぶりでモダンです。伝統的なモチーフながら、扱いが平田の手つきとは違い、これも村野のデザインではないかと感じました。
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── 残っている図面は1階の一枚だけなのですか?
笠原 いえ、本館1階と2階の平面図、また平面の検討図(スケッチ)が存在します。平面図を見る限り、現在は使用されていない2階の特別室「松風の間」もほとんど図面通りの姿で実現していて、ここにも村野らしいデザインが残されています。
たとえば隅の床は、表千家「残月床(ざんげつどこ)」の写しです。一般的な床の間より大きい二畳敷で一段上がるという、村野が好み、自邸や〈グランドプリンスホテル新高輪 茶寮 惠庵〉などあちこちで頻繁に用いた形式の茶席です。
その横にある付書院(つけしょいん)も、欄間の透かし彫りは伝統的ですが、手前の天井の網代(あじろ)は大ぶりでモダンな印象が感じられます。また次の間にある付書院も、柱と柱の間をめいっぱい占めた非常に横に長いもので、こういった手つきもモダンですよね。
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── 検討図(スケッチ)について、教えてください。
笠原 村野が描いた検討図(スケッチ)には、「大観の間」も描かれています。これは、彼が「大観の間」を含む本館を自ら検討し、デザインした証拠だと言えます。図面には、本館の東側(右側)に洋風の諸室が描かれていますが、これが実現したかどうかはわかっていません。実現しなかったのか、それとも形を変えて洋風の部屋がつくられたのではないかと思われます。少なくとも、現存する洋風の部屋とは異なる平面計画やデザインになっているので。
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── なぜ空間構成が村野の図面と一致し、意匠の傾向も違うのに、これまで村野の関与が指摘されず、平田が一人で手がけたと思われていたのでしょうか?
笠原 平田が著作で自作だと言い切っていたからです。実際、本館に関わっていたことには疑いはなく、また戦後から昭和30年代にかけて増築された部分は、すべて平田が単独でやっているようです。ただし、平田による本館の図面資料は残されていません。
一方で、村野は自分が関わったという話をどこにも残していないのです。しかし村野の場合は未発表作品も多く、自ら設計した場合でも、自作であると言わないことが多いので、話が残っていないからと言って、設計していないわけではない。こう考えると、大観荘の場合は図面があるので村野が関わっていたことは確実です。
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── 村野藤吾と平田雅哉は、どのような関係だったのですか?
笠原 中山悦治の仕事が縁で知り合ったと思われます。村野は熱海別邸の図面を描くより5年前の1934年に竣工した中山悦治の本邸を設計し、平田は中山邸2階の和室に関わったようです。そこで村野は和室を含む、全体の図面を描いています。しかし平田は「芦屋の本宅の茶の間」を手がけたと著作で語っています。おそらく協働設計なのでしょう。
村野は早稲田大学で西洋由来の建築を学んだ経歴の持ち主で、学生時代はとくに和風の意匠を学んではいません。とくに戦前は、和風の建築をきちっと形にしてもらうには大工の棟梁の助言が必要で、設計の実践を通じて和風を学んだとみられます。だから熱海別邸も、本館は2人の合作だった可能性が高い。では村野が平田とどれくらい協力したのか。平面図に描かれている本館の建物の骨格から狆くぐりのような細部まで、村野によるデザインが結構含まれているのではないかと考えられます。
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── 2人はその後の仕事でも協働しているんですか?
笠原 あまり聞かないですね。詳細はわかっていません。でも村野は若かりし頃に泉岡宗助という目利きに数寄屋建築の指南を受けていますし、著名な棟梁の中村外二は1937年竣工の〈叡山ホテル〉以後、村野の和風作品をいくつか手がけたようです。
そうやって平田雅哉以外にも、数寄屋のプロと協働することは継続的にやっているんです。当時の建築家は皆そうですね。数寄屋を革新した吉田五十八でさえ、最初は現場で岡村仁三という棟梁から伝統工法を学んだ上で、自分のデザインを獲得していったわけですから。