May 14, 2019 | Art, Architecture, Culture | casabrutus.com
ル・コルビュジエと永井荷風。一見、なんの共通点もないふたりが同時期にパリという世界一モダンな都市で、交錯していた。20世紀初頭の彼らの軌跡を振り返る。
ル・コルビュジエの設計した美術館でル・コルビュジエの作品を見る展覧会『ル・コルビュジエ 絵画から建築へ―ピュリスムの時代』。充実した展覧会であることは間違いないが、多少とまどった人も多かったのではないだろうか。模型や図面が続く、もっと建築展的な色合いが濃いものとイメージしていたが、どちらかというと絵画展としての印象が残る。
ル・コルビュジエが設計した住宅の模型やデザインした家具なども展示され、仕事のエッセンスは十分に見ることができるが、この近代建築の父がこれほどまでに絵を描いていた驚きとともに、この展覧会ではそれを多く集めている。さらに、著述の領域でも活躍した当時のメディアを展示し、見渡している。こういった時期を経て、彼は建築の仕事に集中度を高めていく。
1917年2月、29歳の建築家シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(のちのル・コルビュジエ)はスイス・ジュラ地方の彫金装飾の町、のちに時計産業で知られる小都市ラ・ショー=ド=フォンからパリにやってきた。この花の都に出て来るのは初めてではなかったが、このときは活動の拠点をパリに置くための転居だった。
彼は20代のうちにヨーロッパ諸国を巡る旅を続けた。ウィーン、パリ、ミュンヘン、ベルリンなどの大都市で新しい建築の動向に接し、考察した結果、総合的に見てパリを拠点とすることに決めたという。
ル・コルビュジエとパリに注目してみると、おもしろい事実がわかった。作家で建築・都市計画史家である東 秀紀の著書『荷風とル・コルビュジエのパリ』(新潮社 1998年)という本。帯文にはこうある。
「1908年3月、パリのカルチェ・ラタンに旅装を解いた二人の若者がいた。後の作家永井荷風と建築家ル・コルビュジエである。
彼らが見たパリ—それは、20世紀の都市生活、芸術、思想の原点に他ならなかった。
だが、以後二人は全く正反対の理想都市を追い求める。裏町に魅かれ、遊歩者の視点を説く荷風。他方超高層ビル建ち並ぶ都市への再開発を推し進めようとするコルビュジエ。二人の芸術は、そうした都市観の下で、発展していった。」
(『荷風とル・コルビュジエのパリ』帯文より引用)
小説家であり、一方、モダンな都市生活者としての顔でも今も人気を誇る永井荷風と、モダニズム建築の父、あるいは神(?)であるル・コルビュジエの人生がパリという世界一モダンな都市で、一瞬とはいえ交錯していたとは。
1917年にパリに居を定めたル・コルビュジエが初めてパリに来たのは1908年3月。スイスの山奥の美術学校の学生だった本名シャルル=エドゥアール・ジャンヌレは前年の9月にラ・ショー=ド=フォンを出発し、学友とヨーロッパを旅していた。その途上のウィーンでプッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』を見て、パリの屋根裏部屋とカフェに魅せられ、当初の予定にはなかったパリに向かったのだ。
一方、永井荷風である。荷風の父・久一郎はアメリカのプリンストン大学やボストン大学に留学もしたエリート官吏だった。文学に入れ込む息子に実業を学ばせようと荷風を渡米させ、日本大使館や横浜正金銀行(東京銀行の前身)に勤めさせるが、結局アメリカには馴染めず、これまた久一郎のコネで横浜正金銀行リヨン支店に勤めることとなった。
「この頃荷風は友人に宛てて『連日銀行に出なければならないので、此れが何よりもつらい。僕は西洋に居たいばかりに、ふなれなソロバンをはじき、俗人と交際をして居る』(明治四〇年十二月一一日付、西村恵次郎宛書簡)と書いている。」
(東 秀紀『荷風とル・コルビュジエのパリ』より引用)
なんともダメダメなというか、純粋というか、お坊ちゃまというか。恵まれた境遇を利用し、そのかたわら文学者としての道を行こうというつもりもなかったようだ。結局、そこの職も8ヵ月で辞してリヨンからパリに向かったのが2月28日。当初、ロンドンを4月18日に発つ船で帰国する予定だったが、父の温情により出発を5月30日まで延期してもらえた。
彼はオペラやコンサートに頻繁に通い、西洋音楽やオペラに関する文章を書いている。ドビュッシーなど近代の音楽家を彼が日本に紹介したことも強調しておいていい。当然、プッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』も観て、あらためてパリに想いを寄せただろう。
1908年3月という時間、パリという空間、若き異邦人。ル・コルビュジエと荷風にはそれだけしか共通点はない。会っているわけでもない。1955年、ル・コルビュジエが〈国立西洋美術館〉の設計のために一度だけ来日したときも会ってはいない。彼らはただすれちがうだけの旅人である。そもそも、この時期たまたまパリにいた理由、そして、そもそもこの街に対する思いがまったく違うのだ。
極東の島国からやってきた荷風だが、パリに来る直前はニューヨークにいて、まるでニューヨーカーの目でパリを見ている。事情により、アメリカに行くことにはなったが、長年ずっと憧れていた西洋というのはこの街、パリだったのだ。明治維新以降、急速に近代化し、日清・日露戦争で驕り、迷いなく工業化、軍国化を推し進める祖国。また、機械文明と功利主義により未来を先取りしようとするアメリカ。そんな文明に対する恐怖を肌で感じていた彼にパリは優しかっただろう。この街の路地裏、ある種の懐かしさ。
一方、スイスの山里出身の秀才はヨーロッパのいくつかの街を旅したあと、パリにたどりついた。そこはどこよりも近代的な仕掛けを凝らした地だったに違いない。芸術の都、花の都。
旅は人をつくる。同じとき、同じ場所にいた二人はその後、街というものを対極の目でとらえていく。
『ふらんす物語』の登場人物に言わせた台詞が荷風の本音である。
「巴里の市街も雨と霧の夕暮を除きては美しと思う処更になし。繁華なるブールヴァールよりもセーヌ河の左岸なる路地裏のさまに無限の趣を見出し候」(『ふらんす物語』「ひとり旅」より引用)
[筆者注:ブールヴァール=boulevard(大通り)]
もう1冊興味深い本があるので書き留めておきたい。永井荷風に師事した毎日新聞学芸部記者の小山勝治という人物が書いた『荷風パリ地図 日本人の記録』(毎日新聞社/1964年)。著者は29歳(1908年)の荷風が過ごしたパリを自分の目で見たかった。時代は変わっているけれども、荷風が触れた西欧文明、そして女性たちの情というものは生き続けていることを期待してパリに渡る。そのため帯文ではやたらと「夜のパリ」「優雅なエロティシズム」「世界一の歓楽場」と煽っていて、実際内容もそういった描写が多いのだが。
凱旋門近くに宿をとり、部屋の仕事机の上には文化勲章を胸にかけた永井荷風の肖像写真を飾り、自分を鼓舞したのだった。まあ、そのエロティシズム云々は措いておくとして、興味深いのはこんな描写だ。
「わたしは十数年前から、東京の古本屋でパリの地図を買いあさっていた。そうして手にはいると、それを荷風のところへ持って行って、この地図ならばひとりあるきが出来るというのを選び出してもらうように心掛けていたが、なかなか荷風から太鼓判をおしてもらえるようなものにぶつかるとことができなかった。
すると、ある日、荷風はわたくしの顔を見るなり、
『こんな地図がありましたよ、古い本の中に』
といって、粗悪な紙に印刷した新聞一ページ大のパリ地図を出してくれた。」
(小山勝治『荷風パリ地図 日本人の記録』より引用)
荷風がパリに行ったのは20代のあの一度だけである。後年、もう一度渡仏しようとパスポートまで準備したようだが、それは叶わなかった。きっと行きたかったに違いない。もう一度、パリに行くときのことをずっと考えていたのだろうか。晩年なら飛行機という手もあったといえばあった。
「『これはもうだいぶまえ、だれからかもらったものですが、これならパリの路地を歩いても迷うことはないでしょう』
わたくしはそれをもらって、夜ごと辞典を引きながら、パリの町の名を調べる作業に熱中した。
荷風がニューヨークやワシントンにいてパリの地図を研究していた先例にならって、わたくしは東京でパリの地図を、しっかりと頭の中におさめてしまおうという計画をたてたのである。そういう夜ごとの作業で、どうしてもわからないところは荷風のところにききに行った。荷風はたちどころに疑問を解いてくれた。」
(小山勝治『荷風パリ地図 日本人の記録』より引用)
1959年4月30日、荷風は千葉県市川市八幡の自宅で、店屋ものの丼を食べたあと、胃潰瘍の吐血をし、それが原因で窒息、心臓発作が原因で亡くなった。通いの老婆がひとり寂しく死んでいる彼を発見した。ル・コルビュジエは1965年8月27日、南フランスのカップ・マルタンの別荘近くで海水浴中に心臓発作で亡くなった。77歳。自殺説も消えていない。
不慮の、しかも寂しい死を迎えたということで再び共通点をもってしまった。しかし、それぞれ文学と建築に大きな功績を残し、今もともに影響を与え続ける、つまり仕事は生き続ける2人なのである。