August 31, 2024 | Architecture, Design | casabrutus.com
世界的な建築家やクリエイターとタッグを組み、ハイエンドな別荘兼住宅を提供する「NOT A HOTEL」が、40歳未満を対象とした国際的なコンペティションを開催中。審査員を務めるのは国内のNOT A HOTELを手がけてきた気鋭のクリエイターたち。では、彼らがU-40の時どのような作品を手がけ、どのようなことを考えていたのか? インタビュー連載第3回は建築家の藤本壮介を迎え、40歳未満の時期を振り返ってもらった。
・「NOT A HOTEL DESIGN COMPETITION 2024」とは?
世界的な建築家やクリエイターが手がける別荘を、年間10泊単位で購入することが出来るサービス「NOT A HOTEL」。2021年にフラッグシップ物件の提供を開始して以降、国内外の建築家やクリエイターが手がけるデザイナーズ建築とテクノロジーを融合させたハイエンドな物件を販売・運営している。そして、今年、新たな才能発掘のための取り組み「NOT A HOTEL DESIGN COMPETITION 2024」を立ち上げた。コンペティションのテーマは、手つかずの自然がそのまま残る北軽井沢の敷地を舞台に、新たな物件をデザインするというもの。応募資格は40歳未満(2024年4月11日時点)であること。国籍は問わず、建築士の資格も実績も不問で、純粋にクリエイティブだけで勝負する。そして、最優秀賞に輝いた作品は実際にこの場所に建設・販売される。賞金は1,000万円。
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個人住宅から大学、商業施設、ホテル、複合施設まで世界各地で様々なプロジェクトを展開する藤本壮介。2025年の大阪・関西万博では会場デザインプロデューサーを務めるなど、今最も注目を集める日本人建築家の一人でもある。彼が手掛ける〈NOT A HOTEL ISHIGAKI〉は約3,000坪という広大な敷地にわずか1棟だけが建つという大胆なプランだ。
1. 審査員によるNOT A HOTEL|藤本壮介〈NOT A HOTEL ISHIGAKI EARTH〉
「濱渦さんと石垣島の敷地を見に伺った時、敷地のポテンシャルの高さに驚きました。ゆったりとした土地に元オーナーさんの別荘が1棟だけ建っていて、その佇まいがすごく自然で印象的だったんです。ビジネス的な採算を考えれば広大な敷地に5棟から10棟を建てるのが一般的だと思いますが、土地の素晴らしさを最大限生かすなら1棟以外ないだろうなと」
さらに、海沿いのロケーションにありながら、建物の一部は海から視線を離すという思い切った設計を提案。
「ここは海沿いに伸びた細長い敷地ではなく、奥行きもかなりあって、海の反対側に広大な庭がありました。それで、海を望む開口部の反対側に中庭を設けることで、また別の世界が広がっているような空間ができそうだと考えたんです」
空に向かって開いた中庭には周囲の木々と緑が広がり、まるで大地に包まれるような感覚を味わえる。
2.審査員たちのU-40|藤本壮介「一人考え続けた6年間が、自分の建築観を養った」
現在では国内外のビッグプロジェクトを多数抱える藤本だが、大学卒業後は設計事務所には所属せず、一人で建築を続けてきたという稀有な経歴を持つ。
「大学で建築学科に進学しましたが、最初の2年は一般教養がメインなので、在学中に満足に建築を学んだという手応えを感じられませんでした。その後、建築設計事務所に入って修行した方がいいのかなとも思いましたが、ボスに自分の案を『おもしろくない』と一蹴されたら立ち直れないかもしれないと(笑)。自分に不甲斐なさも感じつつ、このタイミングでじっくり建築について一人で考えてみようと思いました。聞こえはいいかもしれませんが、アルバイトもせず、親に金銭的なサポートをしてもらいながら、生活していたので、全然格好良くはなかったのですが」
東京の住宅街や商店街を歩きながら、途中ファストフードショップに立ち寄り、持参したノートに文章を書き綴ったり、スケッチをするという日々を送っていたという。考えていたのは、“未来の建築とはどうあるべきか”。途中、父親が営む病院の増築を手がけたり、父の紹介で病院の設計を任されたこともあったが、それ以外大きな仕事はなかった。だが、焦りや不安はなかった。
「自分の才能に自信があったわけではないですが、ワクワク感の方が強かったんです。毎日小さくても自分なりの建築観が育っていく感覚があったから」
そうした生活は、なんと6年間続く。だが、建築について思いを深めていた日々が、確実に自身の建築観を育む骨子となった。
・〈青森県立美術館〉「コンペで注目を集め、ギアが入った」
藤本は1999年から2000年にかけて開催された青森県立美術館のコンペに挑戦する。“縄文の森”と呼ばれる縄文集落・三内丸山遺跡の隣に建つ美術館を設計するというもので、藤本は、森と建築が溶け合うようなユニークなプランを考えた。この案が見事一次審査を通過し、二次審査で伊東豊雄や藤森照信ら審査員の前でプレゼンをする機会を得る。
「僕の前は、有名建築家の方が大勢の弟子を引き連れてプレゼンされていました。その後、28歳の若造が一人で出てきたから、伊東さんも藤森さんもおもしろがってくれて」
結果的にこのプロジェクトは建築家の青木淳が手掛けることになるのだが、著名建築家や設計事務所が多数応募する中、無名の藤本が2位(優秀賞)に輝き、一躍注目を浴びた。
「さらにその後、伊東豊雄さんが『新建築』で注目の若手の一人として、僕の名前を挙げてくださったんです。そこで自分の意識も変わり、事務所を立ち上げて、仕事を取っていこうとギアが入りました」
・〈児童心理治療施設〉「人が根源的に求める豊かな生活環境とは何か」
思い出深いプロジェクトがある。2006年、北海道に建てた子どものための心理治療施設だ。
「精神科医である父の後輩の方からの依頼でした。そこは精神的な傷やダメージを負った子ども50人が施設職員の方々と生活しながら、心を取り戻すための医療施設なのですが、一般的にはこういった施設は“閉ざす”ことが常識です。ただ、施主も私の父も『精神医療の場こそなるべく解放していこう』という考えを持っていました。精神的な傷やダメージを負った子どもたちが過ごす空間を細かく区切ってしまうと、人とのコミュニケーションがさらに苦手になり、社会復帰が難しくなると考えていたからです」
センシティブな子どもの心の回復を目指す場とはどういうものか。そこで藤本が考えたのが、空間の中に点在する“くぼみ”だった。
「数人で話したい時もあれば、一人で静かに過ごしたい時もある。くぼみという身を寄せることのできる居場所があちこちにあることで、好きな時に安心して身を隠しながら他者とつながっていることができると考えました。このアイデアが生まれたのは、僕が東京という多様な人が暮らす都市に住みながら、人と建築の関係を考えた時期があったからです。当時家に一人でこもりきりになるのではなく、雑踏の中を散歩したり、コーヒーショップでアイデアを練ったりしていました。それはきっと人の気配を感じたかったからだと思います。あの日々がなかったらこの建築は思いつかなかったかもしれません。特殊な建築だと思われるかもしれませんが、この設計を通して、人と人との関係、そして、人が根源的に求める豊かな生活環境とは何かということを考えるきっかけになりました。この心理治療施設の設計がその後の自分にとっても大きな思考の軸になった気がします」
その後、このプロジェクトが国際的なアワードに輝き、藤本の名前は世界に知られることになる。そして、2012年には伊東豊雄らとともに「第13回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展」の日本館展示で金獅子賞に輝くなど目覚ましい活躍を遂げていく。
3.応募者たちに願うこと|「価値あるものとは何か?を考え続ける」
藤本が「NOT A HOTEL DESIGN COMPETITION」の審査員の打診を受けたのは、冒頭の〈NOT A HOTEL ISHIGAKI〉がまもなく着工する時のこと。コンペの構想を聞いた時、年齢制限を設けた方がいいと提案したのは藤本だった。
「応募資格を40歳未満と区切ることで、若い世代を応援していくという姿勢が明確になると思いました。僕らの世代も安藤忠雄さんや伊東豊雄さん、妹島和世さんといった先行世代の方たちが引っ張ってくださったおかげで今がある。だから、このコンペを通して若い世代を盛り上げたい。また、今回のコンペは参加資格を建築家に絞らず、デザイナーやクリエイターといった幅広いジャンルの人も挑戦できる点もいいですよね。〈NOT A HOTEL〉に優秀な設計チームがいるので、デザイナーが建築のプロではなくても、クオリティを担保できるということもありますが、〈NOT A HOTEL〉がこれからの日本のクリエーションの裾野を広げていこうとする意志を感じます」
藤本自身、〈NOT A HOTEL ISHIGAKI〉の設計を通じて、チームの情熱に奮い立たせられたと振り返る。
「無制限にお金をかけて作っているように見えるかもしれませんが、もちろんそんなことはなく(笑)、その土地にふさわしい価値あるものを作るために必要かどうかという明確な基準があります。これからの時代、できるだけ安く作ろうでは未来がないと思う。若いクリエイターの方たちも価値あるものを生み出すために何をするべきか、考え続けることが大事だと思います」