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日本初公開のドローイングも登場! アートを開放したキース・ヘリングの軌跡を辿る大回顧展が開催。

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January 31, 2024 | Art | casabrutus.com

NYのアートシーンから登場し、1990年に31歳の若さで亡くなるまで、メディアを越境したさまざまな活動で後世に残る作品を手がけてきたキース・ヘリング。彼の約150点もの作品が一堂に会した展覧会『キース・ヘリング展 アートをストリートへ』が、東京・六本木の〈森アーツセンターギャラリー〉で開催中。6つのセクションを巡りながら、彼が追及したアートの姿とそのメッセージを読みときます。

キース・ヘリングの大回顧展が開催中。写真は、『スウィート・サタデー・ナイト』のための舞台セット(1985年)。

展覧会『キース・ヘリング展 アートをストリートへ』は、21世紀の現代美術の行方に決定的な影響を与えたキース・ヘリングの、ポップでカラフルな傑作が並べられた美しい空間を体験できる素晴らしい展示である。また同時に、なぜ現代美術のみならずデザイン、ファッション、インテリア、エディトリアルまでの広義のアートがストリートへと開かれていったのかという、アートとストリート・カルチャーの歴史さえもフラッシュバックさせる内容だ。

ペンシルべニア州のキャンパスタウンで、プロテスタントを信仰する両親に育てられたキース・ヘリング。そんな彼が生まれ故郷を離れ移住した、1970年代終わりから80年代初めのNYの有様を、今からは想像するのも難しいだろう。今ではマンハッタンの観光地であるイースト・ヴィレッジなどは、当時は陽が落ちて暗くなれば歩く人もまばらな治安の悪い地域であった。1970年代の半ば過ぎにはその家賃の安さゆえに、この“ダウンタウン”周辺を根城に新しい世代がアート活動を開始しており、キースもこの“ダウンタウン”派に属して頭角を表していった。

1980年代初頭、ストリートでのキースのスナップ。

実際には少人数だったこの“ダウンタウン”派は、他のすべての前衛的な芸術運動と同じく短命ではあったが、21世紀に至るまでのアート全般の基本的なありさまの多くを既に予見していた。その特徴のひとつは、彼らが1960年代の終わりには既にポップ・アートの神と化していたアンディ・ウォーホルに憧れて影響を受け、多岐のメディアに渡っての活動を志し実践したことだ。

メディアを横断した点はキースにも言えることだが、それよりも彼のキャリアに一貫するのは、同じくグラフィティに大きな影響を受けていた親友ジャン・ミッシェル=バスキアとケニー・シャーフの2人にも共通する、現代美術の歴史に名を残す作家たらんとするシリアスなテーマとアプローチであり、そこから引き出される美術作品としてのクオリティの高さにある。

その出発から終わりまで、現代美術作家としてのキース・ヘリングは一体何を追求し、どのように作品を描いてきたのか。後世に残した作品群が時を経てますます存在感と重要性を増す今、『キース・ヘリング展 アートをストリートへ』の6つの展示セクションを観ていきながら、その答えを探ってみよう。

最初の『Art in Transit : 公共のアート』では、貴重かつ美術史的な伝説と考えられるキース・ヘリングの「サブウェイ・ドローイング」が7点集められている。キースのアートを鑑賞する際に忘れてはならない要素のひとつは“ストリート”性であり、「サブウェイ・ドローイング」はその奇天烈な成り立ち、展示方法までがストリートと直結している。

《無題(サブウェイ・ドローイング)》(1986年)。

1980年キース・ヘリングは、マンハッタンだけで毎日の通勤客が200万人ともいわれたニューヨーク地下鉄駅構内の、空いた広告板のスペースに貼られた黒い紙にチョークで、警官に見つかる前にドローイングが完成するように素早く描いていく「サブウェイ・ドローイング」のアクトを開始。ここにはキースの後年に続くアイコニックなキャラクターと幾つかのテーマが既に現れており、1986年頃まで続けられたその数はなんと5,000枚以上に及んだという。

《無題(サブウェイ・ドローイング)》。初期のストリートの作品の段階ですでに、面白おかしいだけでなくメッセージが込められている。

これは面白半分の行為ではなく、遺される絵と同様に、都市のスペースに介入しその現場で美術を創作する過程自体を重要視した真摯な芸術行動なのだが、巨大な建築物を梱包する作品で知られるクリスト&ジャンヌ=クロードをはじめとした現代美術のコンセプチュアルな面に、キャリアの初めからキースが影響を受けていたことはもっと知られるべきだ。

《男性器と女性器》(左、1979年)と《無数の小さな男性器の絵》(右、1979年)。まだ作風が確立する前の2枚だ。

第2章『Life and Labyrinth :生と迷路』、そして第3章『Pop Art and Culture:ポップアートとカルチャー 』のセクションへと移動する観客は、キースのキャリアにおける最初のピーク時のモチーフである「ラディアント・ベイビー(輝ける赤ん坊)」「ドッグ/吠える犬」「三つ目の怪物/笑う顔」などから、彼の創造した各キャラクターがシグニチャーである黒い縁取りと原色を使った画面の上に、これぞとばかりに活躍するのを存分に楽しめる。

《ドッグ》(1986年)。キースの「吠える犬」は社会的不安を表すという。他の作品にも、生の躍動と同時に怒りや不安が看てとれる。

Tシャツやグッズを通して私たちの暮らしにすっかりお馴染みとなったこれらのキャラクターとの、本展の落ち着いた展示空間での出会い直しは、彼らが担うメッセージの重奏的な面を私たちに指し示すだろう。なぜ犬は吠えるのか。なぜ悪魔が空を翔ぶのか、なぜ怪物が笑うのか。そして、なぜキャラクターは太い黒の線によって描かれた背景=世界と時空に埋め込まれたり、もしくは見分けがつかなくなって見えるのか。

セクシャリティの混沌の中にあるエネルギーを描いた連作《バッド・ボーイズ》シリーズ(1986年)。

彼が影響を受けたアーティストの1人、フランスのジャン・デュビュッフェの正統な美術教育を受けていない画風は、整理されていない生々しい人間らしさを発している。一方、キースは美術教育を受けながら学んだ記号論を流用して、彼の生きていた政治/性的騒乱に満ちた1960年代から1980年代のレーガン政権へと続くアメリカ合衆国の表層的な明るさやポップな外観に、生きるということの混沌やアイデンティティの苦渋を定着させることに成功したといえる。吠える犬や笑う怪物、また背景に溶け込んでいく対象物は、その混沌や苦渋を表現したものだ。

彼の作品は一見するとポップで明るく感じられるが、純粋な無邪気さとは明確に異なる。例えばキースはゲイであることを事実上カミングアウトしていた。以前からLGBTQの権利獲得のための運動があっても、同性愛をタブー視する価値観はあったのだろう。そうした事情は作品の持つ明るさとシリアスなテーマとのコントラストにも反映されていると思える。

『秘密の牧草地』のための舞台セットの一部(1984年)。キースの面目躍如たる象形文字のような、躍動する人々を描いた作品。

もちろん、キースのアートの特徴や魅力を、彼のセクシャリティ/ジェンダーのみに帰するのは単純化に過ぎて間違いである。彼が手がけた1985年のダンス・パフォーマンス『スウィート・サタデー・ナイト』のためのシンプルなモノクロームの舞台セットは、300年にわたるブラック・ダンスカルチャーを祝福するステージであり、彼が自らのジェンダー/セクシャリティを超えた表現を欲したことがみて取れる。加えて、抽象的な多様性のスローガンではなく、親友でありライバルであったバスキアとの出会いや友情関係も含んだ、マイノリティの連帯に対するメッセージを読みとることもできるだろう。

後半の第4章『Art Activism : アート・アクティビズム』、第5章『Art is for Everybody:アートはみんなのために』、第6章『Present to Future : 現在から未来へ』の3つのセクションでは、キースの社会運動との関わりがより鮮明に現れる。既に世界的なギャラリーでの展示やヨーロッパでの大規模な美術展への参加を実現していた彼は、時計ブランドの〈スウォッチ〉やウォッカのブランド〈アブソルート〉といった企業とコラボレーションをしたり、ギャラリーや美術館といった空間から遠く離れ、ポスターのデザインや壁画・彫刻の制作、またワークショップやポップショップの開催などを通して、ストリートにてダイレクトにメッセージを人々に届けていく。後半の章では、それらの活動の中で制作された多くの作品が展示されている。

喜びもトラウマもシンボル化され、記号化された人々が描かれている。

彼が関わった社会のアウェアネスを高めるテーマは、LGBTQにHIV・エイズ予防、当時まだ続いていた南アフリカの人種隔離政策「アパルトヘイト」への反対、それに識字率向上などを含み、反・核/軍拡キャンペーンのポスターは無料で2万部をストリートのデモの群集にキース自ら配布した。このアートの無料配布というアイデアは、観客である私たちに第1章の「サブウェイ・ドローイング」を振り返させるが、2000年代に花開いたストリート・アートの根本にある考え方でもあり、例えば、2003年にイラク戦争反対デモでプラカードを無料配布したバンクシーへとはっきり受け継がれている。

「ヒロシマ 平和がいいに決まってる!!」(1988年)。キースのポスター作品。平和の象徴である鳩とおぼしき“ピース・バード”も、行動せずにはいられない。

しかし、キースにとって政治的な問題は、メッセージ発信のスローガン作成のためだけにあるのではない。5章や6章といった展示の後半に並べられた作品そのものをじっくりと見ていると、彼が扱う数々の政治的・社会的なイシュー、例えば原子力の使用の是非や拝金主義の批判などは、私たち人間が持つ論理的にはすっぱり割り切れないどろどろした部分を描いているとわかる。単純なメッセージとしてではなく、その裏にある人間の複雑な感情も含めながら、作品を手がけていったのだ。

第5章に展示された《赤と青の物語Ⅱ》(左、1989年)と《赤と青の物語Ⅲ》(右、1989年)。

最後の”スペシャル・トピック“である『キース・ヘリングと日本』のセクションは、私たち日本の観客へのプレゼントである。ストリート=路上での彼のアート活動が、いかに国籍・人種・性別・年齢の関係なく人々を結びつけたのか。日本で記録された映像や資料を通して、彼のアートの持つ力の強さと美しさに励まされる。壁に映し出される原宿の歩行者天国のブレイクダンサーの笑顔は眩しく、1988年のレトロ・フューチャーな東京の風景は、完璧に彼のアクションとペインティングの美学と調和している。

80年代、キースは複数にわたり来日。ストリート・ペインティングを行ったりポップショップを開いたりと、日本のファンと交流した。

カラフルで、アイコニックで、ポップなキース・ヘリングの世界。表層的にはそのように受け取られる彼の作品には、実際には何が描かれているのか、彼の心のうちには何があって、それらがどのように作品となって世に出たのか。この『キース・ヘリング展 アートをストリートへ』は、その問いへの答えを示してくれる。

キースは、まずなによりも美術作品として美しいものを創りあげることを忘れず、仕上がりの質の高さに気を配りながらも、様々なメディアをミックスさせることを恐れなかった。ギャラリーや美術館から積極的に出ていくだけでなく、実験的試作で満足せずに資本の力を梃子のように思いきりよく使いながら、アートをストリートへと送り込んだ。

ニューヨークでの最後の個展となった〈トニー・シャフラジ画廊〉での個展のオフセット・ポスター(1988年)。シャボン玉は美しく儚い。

21世紀にこの展示を観る私たちは、1990年、エイズによる合併症で31歳の若さでこの世を去ってしまったキース・ヘリングの見ることのできなかった世界に生きている。人種と政治、ジェンダー/セクシャリティ、エネルギー/環境、全世界的な画一的な都市空間の集約化(=貧富の差の拡大)など、私たちが直面している安易な解決を許さない数々の主題に、彼は約半世紀前に既に取り組んでいた。

自らのアイデンティティを美術の歴史に則り相対化し表現へと昇華させながら、社会へメッセージを発し続けたキース・ヘリング。彼は何十年も先の世界のありようを、先取りしていたと言えるかもしれない。本展でその作品世界に触れながら、彼の残した声に耳を傾けてみたい。

『キース・へリング展 アートをストリートへ』

〈森アーツセンターギャラリー〉 〜2024年2月25日。東京都港区六本木6-10-1 六本木ヒルズ森タワー52階。10時〜19時(金・土〜20時)。無休。2,200円。

キース・ヘリング

1958年アメリカ・ペンシルベニア生まれ。ニューヨークの〈スクール・オブ・ビジュアル・アーツ〉で美術の勉強に励みながら、1980年より地下鉄駅構内にて「サブウェイ・ドローイング」を開始。その後、『ヴェネチア・ビエンナーレ』や『ドクメンタ』など国際的な美術展に参加するなど活躍の場を世界に広げる一方で、ポスターデザインや壁画の制作、ワークショップなどを通して社会的なメッセージを発し続けた。1990年死去。その作品は、この世を去ってから30年以上経つ今もなお、世界中の人々に影響を与え続けている。

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