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吉村順三が見たアメリカの建築。師・アントニン・レーモンドとの交流からひもとく。

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January 11, 2024 | Architecture, Design | casabrutus.com

アントニン・レーモンドのもとで学び、戦前から戦後にかけて何度も渡米した建築家、吉村順三。日本とアメリカで見たものが彼の建築にどう響いていたのかをひもとく展覧会『建築家・吉村順三の眼(まなざし)―アメリカと日本』が東京・江東区の〈ギャラリーエークワッド〉(主催・企画)で開かれています。監修は神奈川大学教授、京都工芸繊維大学名誉教授の松隈洋。めずらしい資料も並ぶ貴重な機会です。

『建築家・吉村順三の眼(まなざし)―アメリカと日本』展会場風景。左は〈軽井沢の山荘〉、右は吉村がデザインした「たためる椅子」。コンパクトにしまえる座り心地のいい椅子。

吉村順三は1908年、東京生まれ。フランク・ロイド・ライトの〈帝国ホテル〉や17歳のときに京都・奈良に旅した経験から建築に興味を持ち、東京美術学校建築学科に入学する。18歳のとき、海外の雑誌に掲載されていたアントニン・レーモンドの自邸〈霊南坂の家〉を探しあて、彼と知り合いだった叔母の紹介で、レーモンドの事務所でアルバイトを始める。1931年に大学を卒業すると正式にレーモンド事務所に入所した。

〈レーモンド・ファーム〉資料。アメリカに戻ったレーモンドが18世紀のクエーカー教徒の農場と農家を購入、改修したもの。

吉村の師となったアントニン・レーモンドはチェコ出身。1919年にフランク・ロイド・ ライトの助手として〈帝国ホテル〉建設のため来日し、1922年に独立して東京に事務所を開く。が、第二次世界大戦前の日米間の関係悪化に伴い1937年にアメリカに戻り、東海岸フィラデルフィア郊外のニューホープに居を構える。

吉村が撮影した〈レーモンド・ファーム〉の写真が2台のモニターで映し出される。吉村自身が写っている写真も。

吉村は1940年にレーモンドの要請で渡米、彼のもとで〈斎籐博駐米大使記念図書室計画案〉や〈モントークポイントの家〉などを担当した。レーモンドが改修した自宅兼事務所〈レーモンド・ファーム〉も訪れ、襖や障子の調達に協力している。あわせてアメリカの民家などを精力的に見てまわった。翌年夏、開戦直前の日本に戻った吉村は自身の事務所を開設する。

吉村の別荘だった〈軽井沢の山荘〉(1962年)。コンクリートの箱の上に木造の躯体を載せた、軽やかな建物。

戦後、吉村はたびたび渡米して〈松風荘〉〈ジャパン・ソサエティー〉などを手がける。あわせて日本でも〈軽井沢の山荘〉や〈国際文化会館〉(前川國男、坂倉準三と共同設計)、住宅など多くの作品を残した。

〈猪熊邸〉(1971年)。オリーブの木を取り囲むようにして建てられた。

吉村の建築には若き日の彼がアメリカで目にしたものや、レーモンドからの影響が源流となって流れている。たとえば画家の猪熊弦一郎の自邸〈猪熊邸〉ではアーリーアメリカンの住宅に倣って天井を低めにした。一方で通風など、日本建築のよさもとりいれた家になっている。ニューヨークに長く暮らした猪熊はこの家を「スケールが本当に親しみやすい」と気に入っていたという。

〈ポカンティコヒルの家〉(1974年)。ニューヨーク郊外に建てられた「口」の字型の住宅。

また吉村がアメリカで手がけた建物には日本建築のエッセンスが随所に感じられる。〈ジャパン・ソサエティー〉にはアルミのすだれや鉄製の犬矢来があしらわれた。クライアントから「日本建築のよさを活かしてほしい」と依頼された〈ポカンティコヒルの家〉は襖や障子がすべて躯体に納まるようになっていて、大きな窓から内外が緩やかにつながる。

〈松風荘〉(1954年)。建物と庭との連続性や過剰な装飾を避けたディテールはモダニズム建築にも通じる。

1954年には〈ニューヨーク近代美術館〉の中庭に〈松風荘〉を建設し、日本の伝統建築とモダニズム建築との類似性を示した。〈松風荘〉はキュレーターのアーサー・ドレクスラーが企画した「House in the Garden」という屋外の展示で建てられたもの。現在は〈フェアマウント・パーク〉に移築されている。

妻が教える音楽学校として設計した〈ソルフェージスクール〉(1967年)。現在は長女の隆子が運営している。

吉村は1941年に帰国する際、日本までの船でジュリアード音楽院に留学していたバイオリニスト、大村多喜子と結婚した。後に生まれた長女、隆子もチェリストとして活躍している。彼が妻のために設計した〈ソルフェージスクール〉は多喜子がレーモンドの妻、ノエミを通じて学んだマリー・シャセバンの音楽教育メソッドによる学校だ。字の書けない子どもでも音楽理論を学ぶことができるという。吉村はソルフェージで使う音符セットもデザインしている。

〈八ヶ岳高原音楽堂〉(1988年)のためにデザインした折り畳み椅子。

〈八ヶ岳高原音楽堂〉では残響時間を調整するためのパネルを組み込んだ木製スクリーンを引き出すことで、音響特性を変化させられるようになっている。また、このホールのためにデザインした折りたたみ式の椅子で、ステージと客席を自由にレイアウトできるようにしている。吉村はこのほかにもピアニストの住宅園田高弘邸(現・伊藤邸)や、音楽ホールを併設した高層オフィスビル〈青山タワービル/タワーホール〉を手がけた。

1941年に帰国する吉村にレーモンドが贈った建築のスケッチ。右下にサインがある。

展覧会では師・レーモンドら吉村をめぐる人々との交流の記録が展示されている。レーモンドの事務所で〈東京女子大学礼拝堂〉などを担当した杉山雅則は後に三菱地所に移り、丸の内の都市開発に携わった。1941年に吉村が日本に帰るときにはレーモンドがスケッチブックに愛らしいイラストとサインを描いてプレゼントしている。〈ポカンティコヒルの家〉には吉村や杉山と同じくレーモンド事務所に在籍していたジョージ・ナカシマの家具が220も置かれた。

会場風景。展示されている模型の多くは、展覧会監修者の松隈洋が教授を務める神奈川大学の学生によるもの。

吉村はレーモンドを通じてアメリカの建築から多くを学び、レーモンドは吉村を通じて日本の庶民の家や伝統建築に触れている。こういった交流から2人が得たものは自然に対して、また人に対して開かれた建築だった。戦争という不幸な事態を越えて2人が育んだものから生まれた建築を体感できる展覧会だ。

会場入口。写真は〈ニューヨーク近代美術館〉の中庭に展示された〈松風荘〉。

『建築家・吉村順三の眼(まなざし) ーアメリカと日本ー』

〈公益財団法人ギャラリーエークワッド〉東京都江東区新砂1-1-1 竹中工務店東京本店1F。〜2024年3月28日。日曜・祝日休。10時~18時(土曜・最終日は17時まで)。

吉村順三

よしむら じゅんぞう 1908年東京生まれ。東京美術学校建築学科卒業。アントニン・レーモンドの事務所を経て1941年吉村順三設計事務所を設立。猪熊弦一郎のほかにも彫刻家の脇田和やグラフィイクデザイナーの亀倉雄策らと親交を結び、それぞれ山荘などを手がけている。〈奈良国立博物館 新館〉〈俵屋旅館〉など作品多数。1997年没。

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