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幻の「髙島屋」に見る坂倉準三の人間性ある建築。

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December 17, 2021 | Architecture, Culture | casabrutus.com

戦後間もない1948年、社員でも知らない人が多い幻の〈髙島屋和歌山支店〉が開店しました。設計はル・コルビュジエのもとで修業した坂倉準三。日本橋の髙島屋で、その前後のプロジェクトとともに彼の思想に迫る展覧会『建築家・坂倉準三と髙島屋の戦後復興』が開かれています。

〈髙島屋和歌山支店〉(1948年)。車が走る目抜き通りに面した2階にカフェがあり、バルコニーから街を眺めることができた。

坂倉準三がル・コルビュジエのアトリエに入ったのは1931年のこと。1937年には〈パリ万博日本館〉で国際的なデビューを飾った。このとき髙島屋は〈パリ万博日本館〉の内部造作や小物を製作、日本橋店で「日本館出品物展示会」を開いて坂倉の図面などを展示している。1939年に帰国した坂倉が戦後、空襲で甚大な被害を受けた和歌山で〈髙島屋和歌山支店〉を設計した背景にはこんな経緯があったようだ。〈髙島屋和歌山支店〉は彼にとって初めての恒久的な公共建築になる。

〈髙島屋和歌山支店〉内部のスロープ(1948年)。小さな街の中を散策するような気分が味わえたに違いない。

当時は戦争の影響で資材が乏しかったため、建物は木造の2階建てだ。バタフライ屋根というV字型の屋根が目を引く。内部には壁がなく、スロープで4つのスキップフロアをつなぐ構成だった。スロープは〈パリ万博日本館〉でも印象的に使われている。〈髙島屋和歌山支店〉は決して大きくはないけれど、スロープを上り下りするうちに建築的プロムナード(散策路)の楽しさを味わえる建物だったに違いない。

〈髙島屋和歌山支店〉断面図(1/50)。スキップフロアをスロープでつなぐ構成がよくわかる。文化庁国立近現代建築資料館所蔵。

坂倉はル・コルビュジエの〈サヴォア邸〉について「階段はひとつの階と他の階を切り離し、斜路は結びつける」と評している。〈髙島屋和歌山支店〉では大きな窓を通じて外部とのつながりも感じられる。坂倉のモダニズムが開花した〈髙島屋和歌山支店〉は残念ながら4年あまりしか使われることなく、同支店は閉鎖した。

〈髙島屋大阪難波新館〉改増築(1950年)。「ニューブロードフロア」と名づけられた売り場。3000坪もの巨大なスペースが生まれて売上も大幅アップしたという。大階段を上り下りするたびに心躍るのが想像できる。

坂倉は和歌山支店に続けて、戦争で被災した〈髙島屋大阪店〉の南海電鉄難波駅ホーム下にあった大食堂の修復を依頼される。戦後はダンスホールや展示会場として使われていたこの場所を売り場に転用することになったのだ。坂倉は〈髙島屋本館〉とホーム下にあった壁を撤去し、本館の地階からホーム下の中地階、本館の1階をスキップフロアと幅21メートルの大階段でつないだ。「ニューブロードフロア」と名づけられたこのスペースの天井は白で、壁は鮮やかな原色で塗られていた。顧客はフロアを行き来しながら色鮮やかな壁の景色が移り変わるのを楽しんだことだろう。

1954年頃に描かれた渋谷駅〈東急会館〉付近の将来図。画面中央を縦に走る国鉄の線路の左が〈東急会館〉。右の〈東急百貨店〉と「跨線廊」で連結している。〈東急百貨店〉からは画面右の〈東急文化会館〉に向かって地下鉄銀座線の地上部分が走っている。文化庁国立近現代建築資料館所蔵。

「ニューブロードフロア」の評判を伝え聞いたのか、坂倉に次のプロジェクトを依頼したのが東急電鉄会長の五島慶太だった。彼は東急東横線のターミナルだった渋谷の〈玉電ビル〉を含めた地域の再開発に頭を痛めていた。

和歌山や大阪と同様に空襲によって被災した〈玉電ビル〉の修復を依頼された坂倉は、地下鉄(現東京メトロ)銀座線と国鉄(現JR)山手線の向かい側にあった〈東横百貨店〉の間に線路をまたぐ通路をかけ、「跨線廊」(こせんろう)と名づける。この「跨線廊」は幅16メートル、長さ32メートルもある大規模なものだった。〈玉電ビル〉は地上11階まで増築され、上層部にホールとデパートがある〈東急会館〉として1954年に完成する。

新宿西口広場(1966年)。右下に弧を描いて地下に降りていくスロープが見える。文化庁国立近現代建築資料館所蔵。

渋谷に続き、坂倉は〈新宿駅西口〉の再開発プロジェクトに着手する。〈新宿駅〉は国鉄や小田急、京王線などが乗り入れる、半世紀前の時点でも日本最大級の駅だった。この新宿も関東大震災や太平洋戦争で被災したため、1960年に「新宿副都心計画」が策定される。坂倉は当時、小田急の駅を含むビルの計画に関わっていたことから新宿駅西口広場と地下駐車場の整備を担当することになった。1966年には地下2階の駐車場と地下1階の歩行者コンコースからなる〈太陽と泉のある地下広場〉が、翌67年には小田急ビルが完成する。

新宿駅西口広場。山田脩二撮影。1969年6月28日、ベトナム戦争に反対する若者たちが数千人規模のフォーク集会を開いたときのもの。

当初の計画では地下は完全に塞がれて換気塔だけが地上に頭を出すというものだった。しかし、これでは電車の乗降客らが歩く地下スペースは圧迫感のあるものになってしまい、防災の面からも懸念が残る。

坂倉は事務所のスタッフとともに地面に直径60メートルにもなる巨大な穴をあけ、螺旋状の2つの斜路で地上と地下をつなぐプランを考えた。自然光がたっぷり入る穴の中央には噴水が設えられ、都市の坪庭のように人々を迎える。〈太陽と泉のある地下広場〉の名にふさわしい眺めだ。

坂倉準三とル・コルビュジエ(1955年)。ル・コルビュジエは〈国立西洋美術館〉のため来日、日本での弟子たちの作品も訪れた。文化庁国立近現代建築資料館所蔵。

坂倉は〈パリ万博日本館〉に寄せた文章の中で、ル・コルビュジエの有名な「住宅は住む機械である」という言葉について「建築界では『機械』の語が注目されるが、ル・コルビュジエが重視したのは『住む』という要素のほうである」といった内容のことを言っている。そして「住む」主体は「人間」であるということを忘れがちだ、という警告も発している。仮設ではあったが、坂倉建築の原点ともいえる〈パリ万博日本館〉ですでに彼は、建築は人間のためのものであるということを明快に述べているのだ。

坂倉が1969年に没した後も日本各地で再開発計画が相次ぐ。〈東急文化会館〉(1956年、現ヒカリエ)など、建て替えられてしまった坂倉建築もある。都市が新陳代謝していくのはある意味では自然なことだ。しかし、「その際に坂倉が何を考えて建築や都市をデザインしていたのか、その思想を忘れないでほしい」と展覧会を監修した建築家、松隈洋は言う。坂倉のヒューマニティがこれからの街をつくる鍵になる。

企画展『建築家・坂倉準三と高島屋の戦後復興―「輝く都市」をめざして―』

〈髙島屋史料館TOKYO〉東京都中央区日本橋2丁目4-1 日本橋髙島屋S.C. 本館4階。 〜2022年2月13日。11時〜19時。月・火曜・12月27日〜2022年1月4日休。入館無料。 ※12月11日から、本展監修の松隈洋氏による解説動画が無料公開中。〈髙島屋史料館TOKYO〉のセミナーページにて閲覧できる。期間は2022年2月13日まで。

『建築家・坂倉準三「輝く都市」をめざして 髙島屋の戦後復興にはじまる都市デザインへの挑戦』

松隈洋 著。青幻舎刊。A5判 160ページ。2,750円。

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