February 2, 2021 | Architecture | casabrutus.com
戦後日本の建築界に大きな影響を与え、メタボリズム運動の第一人者として活躍した建築家・菊竹清訓の回顧展が、彼に縁の深い島根県で開催。没後10年の今年、改めて、その偉業を振り返ってみよう。
![](http://casabrutus.com/wp-content/uploads/2022/01/0131kikutake01_1104.jpg)
夕陽の名所として知られる宍道湖畔に建つ〈島根県立美術館〉。手がけたのは、戦後日本の建築界を牽引した建築家のひとり、菊竹清訓(1928-2011)だ。この美術館で2021年3月22日まで、菊竹の没後10年を機に山陰の作品群を中心に紹介する回顧展『菊竹清訓 山陰と建築』が開催されている。
![](http://casabrutus.com/wp-content/uploads/2022/01/0131kikutake1-2_1104.jpg)
菊竹清訓は、1928年福岡県久留米市生まれ。早稲田大学在籍中の48年に行われた〈広島平和記念聖堂〉のコンペで、学生ながら丹下建三に次ぐ、前川國男と並ぶ3位となり、その名は早くから知られていた。
53年に独立。60年に川添登、大高正人、黒川紀章らと結成した、社会の変化に対応し代謝・更新する建築、都市を提案する「メタボリズム」グループの中心的な存在となる。代表作に、自邸〈スカイハウス〉、〈東光園〉〈都城市民会館〉(現存せず)、〈東京都江戸東京博物館〉などが知られる建築家だ。
![](http://casabrutus.com/wp-content/uploads/2022/01/0131kikutake2-1_1104.jpg)
菊竹と山陰とのつながりは、若き日に訪れた〈出雲大社〉から始まる。同社本殿の、かつて50m近い高さを誇った(平安時代に編纂された『口遊』には、高さ16尺=約48mという記述が残る)という壮大な構想と技術の限界への挑戦に驚愕し畏怖した菊竹。メタボリズムグループのひとり、評論家・川添登に「菊竹清訓論は出雲大社の『出会い』から始めなければならない」と言わしめるほど、この出雲大社との出会いが彼の建築開眼につながったという。
![](http://casabrutus.com/wp-content/uploads/2022/01/0131kikutake3-1_1104.jpg)
加えて、若き菊竹を見出し、出雲に導いた当時の島根県知事・田部長右衛門をはじめとする人々との出会いもあり、山陰地方には〈島根県立博物館〉〈島根県立図書館〉〈出雲大社庁の舎〉(現存せず)、〈田部美術館〉〈東光園〉〈萩市民館〉など50年代から90年代にかけての代表作11件が集積することになる。
![](http://casabrutus.com/wp-content/uploads/2022/01/0131kikutake3-2_1104.jpg)
展覧会ではこの山陰に点在する作品に焦点をあて、模型、図面、スケッチなどの資料で詳しく紹介していく。菊竹作品を大切に使い続ける所有者でもある島根県ならではの資料も見どころだ。
![](http://casabrutus.com/wp-content/uploads/2022/01/0131kikutake4-1_1104.jpg)
![](http://casabrutus.com/wp-content/uploads/2022/01/0131kikutake4-2_1104.jpg)
また、初期の作品と生涯をかけて探求した海上都市などの構想も見逃せない。菊竹が代謝・更新する建築を考えるに至ったのは、独立後間もない1950年代後半の郷里・久留米でのこと。戦後の物資がまだ乏しい中、解体した部材を転用することで実現させた木造建築の改築、つまりリノベーションからだった。既存の建物の屋根裏に登り、クモの巣にまみれながら部材をひとつひとつ採寸し、転用を模索する中で日本の木造建築が持つ移築や改築における柔軟性を見出したという。
その後、〈スカイハウス〉に代表されるコンクリートや鉄による現代建築において、代謝・更新する建築を具現化させていく。そのきっかけとなった〈石橋文化センター〉(一部現存)や〈永福寺幼稚園〉(現存せず)はじめメタボリズム以前の初期作品も紹介している。
![](http://casabrutus.com/wp-content/uploads/2022/01/0131kikutake5-1_1104.jpg)
〈スカイハウス〉の実現と時を同じくする58年には、〈塔状都市〉〈海上都市〉を提案。翌年のCIAM(近代建築国際会議)でも紹介されたこの構想は、都心の土地不足や工業化による沿岸の環境破壊といった社会問題が大きくなる中で、人々の生活と環境を守るために提案した人工土地の計画だ。
![](http://casabrutus.com/wp-content/uploads/2022/01/0131kikutake5-2_1104.jpg)
とくに〈海上都市〉は彼のライフワークとなり、71年にはアメリカ・ハワイ大学で研究・実験に取り組み、75年の沖縄国際海洋博では政府館〈アクアポリス〉として実現させるなど、生涯取り組み続けた構想だ。こうした一連の構想も模型や自らのスケッチなどが展示されている。
![](http://casabrutus.com/wp-content/uploads/2022/01/0131kikutake6-1_1104.jpg)
![](http://casabrutus.com/wp-content/uploads/2022/01/0131kikutake6-2_1104.jpg)
山陰の作品も含め、彼の建築を語る時に用いられるキーワードに「変わるもの」と「変わらないもの」がある。それは住宅から壮大な海上都市まで、菊竹が目指した代謝・更新する建築、都市における、残すものと代謝更新するもののこと。それを見出すことは、言い換えれば建築や社会における真理を見つけることでもある。
菊竹はその真理を探求し、技術への信頼の下、「かた」となる提案を生み出し続けた。時は変わってもその姿勢から学ぶことは多い。「私の原点は出雲にある」と自ら語った地で、多くの建築家に影響を与えたその業績を振り返りつつ、未来につながる「変わらないもの」を見つけてはどうだろうか。