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没後10年、大規模な菊竹清訓展が〈島根県立美術館〉で開催中。

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February 2, 2021 | Architecture | casabrutus.com

戦後日本の建築界に大きな影響を与え、メタボリズム運動の第一人者として活躍した建築家・菊竹清訓の回顧展が、彼に縁の深い島根県で開催。没後10年の今年、改めて、その偉業を振り返ってみよう。

アクアポリス(1975年)。沖縄海洋博の政府館として実現した海上都市。「海上都市によって国境をなくすこと」をねがい、さまざまな海域や利用目的を想定したバリエーションを菊竹は提案し続けた。画像提供:沖縄国際海洋博覧会協会

夕陽の名所として知られる宍道湖畔に建つ〈島根県立美術館〉。手がけたのは、戦後日本の建築界を牽引した建築家のひとり、菊竹清訓(1928-2011)だ。この美術館で2021年3月22日まで、菊竹の没後10年を機に山陰の作品群を中心に紹介する回顧展『菊竹清訓 山陰と建築』が開催されている。

宍道湖に沿うように建つ〈島根県立美術館〉(1998年)。湖畔の洲浜をモチーフにしたという大きな屋根が特徴。「日本の夕陽百選」にも選ばれている。対岸からの優美な姿も必見だ。

菊竹清訓は、1928年福岡県久留米市生まれ。早稲田大学在籍中の48年に行われた〈広島平和記念聖堂〉のコンペで、学生ながら丹下建三に次ぐ、前川國男と並ぶ3位となり、その名は早くから知られていた。

53年に独立。60年に川添登、大高正人、黒川紀章らと結成した、社会の変化に対応し代謝・更新する建築、都市を提案する「メタボリズム」グループの中心的な存在となる。代表作に、自邸〈スカイハウス〉、〈東光園〉〈都城市民会館〉(現存せず)、〈東京都江戸東京博物館〉などが知られる建築家だ。

庭園を手がけた彫刻家・流政之の紹介で実現した皆生温泉の〈東光園〉(1964)。5、6階の客室は上部の大梁から吊り下げられる大胆な構造が特徴だ。展覧会にあわせた宿泊プランもあり。 photo_Shinichi Ito

菊竹と山陰とのつながりは、若き日に訪れた〈出雲大社〉から始まる。同社本殿の、かつて50m近い高さを誇った(平安時代に編纂された『口遊』には、高さ16尺=約48mという記述が残る)という壮大な構想と技術の限界への挑戦に驚愕し畏怖した菊竹。メタボリズムグループのひとり、評論家・川添登に「菊竹清訓論は出雲大社の『出会い』から始めなければならない」と言わしめるほど、この出雲大社との出会いが彼の建築開眼につながったという。

出雲大社境内に計画された〈出雲大社庁の舎〉(1963年)。本殿を米倉と解釈し、庁の舎は稲掛けをモチーフとした。柱と2本の長い梁以外はコンクリートの部材を木造建築のように組み立てた。 photo_Tetsuya Ito

加えて、若き菊竹を見出し、出雲に導いた当時の島根県知事・田部長右衛門をはじめとする人々との出会いもあり、山陰地方には〈島根県立博物館〉〈島根県立図書館〉〈出雲大社庁の舎〉(現存せず)、〈田部美術館〉〈東光園〉〈萩市民館〉など50年代から90年代にかけての代表作11件が集積することになる。

山陰での初めての仕事となった〈旧島根県立博物館〉(1958年)。「くら」とされる展示室が高く持ち上げられ、自然通風、採光ができる可動のルーバーが特徴だ。屋根の形状は松江城からの視線を意識したもの。69年には増築が計画され、現在も島根県庁第三分庁舎として大切に使われている。 撮影:高橋菜生

展覧会ではこの山陰に点在する作品に焦点をあて、模型、図面、スケッチなどの資料で詳しく紹介していく。菊竹作品を大切に使い続ける所有者でもある島根県ならではの資料も見どころだ。

島根県立図書館(1968年)。県庁周辺には菊竹建築が集まる。県職員による力作『松江の菊竹建築探訪マップ』も用意されているので、展覧会と併せて菊竹作品を見てまわれるのも魅力だ。 撮影:根本友樹
〈島根県立図書館〉(1968年)のスケッチ。計画時の冬に旧図書館を視察した菊竹は、市民が寒空の下、開館を待っている姿を見て、与件になかった寒風をしのげる大きなロビーを設けたという。 情報建築蔵

また、初期の作品と生涯をかけて探求した海上都市などの構想も見逃せない。菊竹が代謝・更新する建築を考えるに至ったのは、独立後間もない1950年代後半の郷里・久留米でのこと。戦後の物資がまだ乏しい中、解体した部材を転用することで実現させた木造建築の改築、つまりリノベーションからだった。既存の建物の屋根裏に登り、クモの巣にまみれながら部材をひとつひとつ採寸し、転用を模索する中で日本の木造建築が持つ移築や改築における柔軟性を見出したという。

その後、〈スカイハウス〉に代表されるコンクリートや鉄による現代建築において、代謝・更新する建築を具現化させていく。そのきっかけとなった〈石橋文化センター〉(一部現存)や〈永福寺幼稚園〉(現存せず)はじめメタボリズム以前の初期作品も紹介している。

〈スカイハウス〉(1958年)。戦後日本の住宅史にその名を残す自邸。進歩の早い設備であるキッチン、浴室は部屋の周りに配置され、取り替えできるように計画した。当初は子ども部屋も床下に吊り下げられた。幾度となく増改築の手が加えられ、代謝・更新する建築を自ら実践していった。 撮影:川澄明男

〈スカイハウス〉の実現と時を同じくする58年には、〈塔状都市〉〈海上都市〉を提案。翌年のCIAM(近代建築国際会議)でも紹介されたこの構想は、都心の土地不足や工業化による沿岸の環境破壊といった社会問題が大きくなる中で、人々の生活と環境を守るために提案した人工土地の計画だ。

会場ではスカイハウスの実物大パビリオンも登場。展覧会の大きな見どころだ。 撮影:山本大輔

とくに〈海上都市〉は彼のライフワークとなり、71年にはアメリカ・ハワイ大学で研究・実験に取り組み、75年の沖縄国際海洋博では政府館〈アクアポリス〉として実現させるなど、生涯取り組み続けた構想だ。こうした一連の構想も模型や自らのスケッチなどが展示されている。

菊竹が最初に発表した〈海上都市〉計画のスケッチ(1958年)。工場によって壊されていく海岸線を守り、人々が利用できるようにと提案した。 情報建築蔵
模型、図面、スケッチなどの資料を使った展示風景。 撮影:山本大輔

山陰の作品も含め、彼の建築を語る時に用いられるキーワードに「変わるもの」と「変わらないもの」がある。それは住宅から壮大な海上都市まで、菊竹が目指した代謝・更新する建築、都市における、残すものと代謝更新するもののこと。それを見出すことは、言い換えれば建築や社会における真理を見つけることでもある。

菊竹はその真理を探求し、技術への信頼の下、「かた」となる提案を生み出し続けた。時は変わってもその姿勢から学ぶことは多い。「私の原点は出雲にある」と自ら語った地で、多くの建築家に影響を与えたその業績を振り返りつつ、未来につながる「変わらないもの」を見つけてはどうだろうか。

『菊竹清訓 山陰と建築』

〈島根県立美術館〉島根県松江市袖師町1-5。〜3月22日(2月16日に一部展示替え)。2月:10時~18時30分、3月:10時~日没後30分。火曜休(2月23日は開館)。一般600円(当日券650円)。TEL 0852 55 4700。※事前の日時指定による定員制。当日定員に空きがある場合は、館内にて当日券を販売。伊東豊雄、仙田満などの建築家を輩出した菊竹事務所の様子を、遠藤勝勧、長谷川逸子、内藤廣が語るなど2編のオンラインパネルディスカッションも配信予定。

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