October 10, 2020 | Art, Architecture | casabrutus.com
私たちの生活を支える大切なインフラ、土木。毎日のように使っている水道や道路は土木工事のおかげだ。その土木のルーツはどうなっていたんだろう? 〈太田記念美術館〉で開かれている『江戸の土木』展が昔の様子を教えてくれます。
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今でいうと雑誌のグラビアのような役割を果たしていた浮世絵。当時の人気歌舞伎役者や流行のファッションなどがわかる貴重な資料だ。その中には橋や堤などが描かれたものも少なくない。中でも江戸では徳川家康によって幕府が開かれて以来、埋め立てなどの天下普請(公共土木工事)による街作りが行われてきた。当時のことなので鉄ではなく木、コンクリートではなく石を使うことが多いが、絵師たちもその構造美に惹かれたのか、葛飾北斎や歌川広重らが”土木絵”とでも呼びたくなる絵を残している。しかもけっこう丁寧に描かれていて、構造なども推測できるのが面白い。
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江戸の町は隅田川などのほか、水路が縦横に走り、水運も盛んだった水の都だ。そのため、日本橋をはじめ多くの橋が造られている。歌川広重による《東都名所 両国橋夕涼全図》は縦長の浮世絵を横に3枚つなげてパノラマ状にする「三枚続」の絵。全長171メートルの両国橋は人でいっぱいだ。観光客でぎっしりのプラハ・カレル橋なども思い出す。川には屋形船が、手前の岸には仮設の店や芝居小屋が立ち並び、人々がそれぞれに涼をとっている。
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風景画や花鳥画、妖怪まで何でも描いた葛飾北斎だが、”ベスト・ブリッジズ・イン・ジャパン”とでも言うべき橋のシリーズ「諸国名橋奇覧」を出しているところを見るとかなりの橋好きだったようだ。このシリーズのうち《かめゐど天神たいこばし》はついうっかり足をすべらそうものなら大惨事になりそうな急勾配の太鼓橋。北斎の描く富士山のように縦方向に引き延ばされているのでは、と思えるが、明治時代の絵はがきにほぼこのままの写真がある(紅林章央「北斎は、橋マニアだった!」『東京人』2020年7月号より)。画面左にはもっと勾配の緩い太鼓橋があり、この太鼓橋は眺めを楽しむためのものだったのかもしれない。
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飲料にしたり、交通路となったりと、川や水路は江戸の町に欠かせないものだった。江戸幕府は堤や壕などの水利土木によって”水の都”の形を整える。港区の溜池には、今は池はないけれど、もともとは1606年ごろに建設された飲料水のためのダム(堤)があった。北斎《諸国瀧廻 東都葵ヶ岡の瀧》の小さな滝の向こうに見えるのがかつての「溜池」だ。北斎が描き分ける静かな水と滝、波打つ水面もさることながら、六角形に切りそろえられた石による擁壁も興味深い。
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広重《東都名所坂つくしの内 飯田町九段坂之図》の堤は法面に草が生えているように見える。今で言うロックフィルダム(大小の石や砂利を積み上げて造るダム)だろう。右側の道は天端(てんぱ、堤やダムの上部)を通って画面左上、江戸城の田安門に続いていたようだ。
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「世界は神が造りたもうたが、オランダはオランダ人が造った」とは干拓や埋め立てによって国土を拡充してきたオランダが自らを誇って言う言葉だが、江戸幕府もこのあたりはもっと自慢していいはずだ。家康が入城して間もないころから東京湾沿いに埋め立てが進められ、新しい土地を獲得してきた。
広重が描いた佃島は本能寺の変で家康を助けた漁師たちが埋め立ててできた島。そのほかにも現在の日本橋浜町や新橋などの埋め立てが行われた。現在も造成は続けられ、今では東京湾に面した土地の大半は埋め立てによって造られたものとなっている。江戸時代の埋め立ては重機などないから人力で行われている。遠浅の東京湾を埋め立てることで土地が有効活用できるようになり、舟運も便利になった。現在の東京がこれだけ繁栄しているのもこの埋め立て事業のおかげなのだ。
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江戸では時代の要請に合わせて町の姿を変えていく再開発事業も盛んだった。江戸市中の遊女屋を集めた吉原は唯一の公許の遊郭だ。現在の人形町付近には中村座、市村座という劇場や見世物小屋、芝居茶屋などがあり、二丁町と呼ばれた人気のエンターテインメント・エリアだった。隅田川には中州と岸の間の砂州を埋め立てて造った「中州(なかず)新地」という、茶屋が集まる遊興エリアがあった。が、風紀取り締まりや治水の問題から十数年後には取り壊されてしまう。
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江戸も東京もたびたび大火や地震といった災害に見舞われてきた。展覧会には安政2年(1855年)の安政の大地震で曲がってしまった浅草寺五重塔の頂上の九輪を描いたものや、台風による洪水で落橋してしまった橋を描いた絵も出品される。江戸は破壊されるたびにたくさんの人々の助けを借りて立ち直ってきた。土木が暮らしを守ってきたことを実感できる展覧会だ。
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