April 9, 2020 | Art, Architecture, Travel | casabrutus.com
生まれ変わった〈京都市京セラ美術館〉はその最初の展示で、この世の(終わった)先にあるものを表現する場になる。杉本博司はこれまでも「時間の終わり」「今日、世界は死んだ」というタイトルで、終末観を展開してきたが、今回、京都・岡崎に建つ〈京都市京セラ美術館〉の新館・東山キューブを寺社に見立て、だれも未だ見ぬ浄土を出現させる。宗教、科学、芸術。京都だからこそ杉本が表現できたこととは?
前身は昭和天皇即位を記念した〈大礼記念京都美術館〉。終戦後、駐留軍に接収されていたが、1952年、〈京都市美術館〉となった。この建物が今年、青木淳、西澤徹夫の共同設計によって大規模な改修と増築を行った。この機にネーミングライツを導入し、通称〈京都市京セラ美術館〉としてリニューアルオープンとなる。なお、2020年4月9日現在、5月6日までを目処に当面の間、開館時期を延期中とのこと。ひと足早く、本記事で展覧会の様子をご覧いただきたい。
生まれ変わる美術館での1回目の展覧会のひとつが『杉本博司 瑠璃の浄土』である。本館の改修と同時に建てられた「東山キューブ」と呼ばれる新築の建物での展示となる。
京都、しかも岡崎に建つこの美術館での展示をオファーされたとき、杉本は頭の中で、いくつもの“縁”についてあらためて思い巡らせ、即座に構想の枠組みが出来上がったに違いない。かつて古美術商として活動し、現在も古美術の蒐集家ではある杉本にとって平安期の末法思想につながる美術品は興味の尽きないテーマである。これまでの彼の創作活動もその影響に基づいているところが大きい。
岡崎といえば、平安時代、白河院(1053-1129)が院政を敷いていた地だ。時は末法の時代。末法とは仏教において、釈迦の入滅後、仏の教えが廃れ、教法だけが残る暗黒の一万年をいう。白河院は、実の孫である鳥羽院(1103-1156)の后の待賢門院璋子(1101-1145)との間に子をなし、それが崇徳院(1119-1164)だと言われる。鳥羽院の実子である後白河院(1127-1192)によって、この異父兄、崇徳院は讃岐の直島に流されてしまった。
直島には杉本も縁がある。〈ベネッセアートサイト直島〉に多くの作品が収蔵されているし、この地にある護王神社を再建した経緯があるからだ。2002年に行われた、崇徳院の御在所跡の近くに建つ護王神社の再建は、杉本の実質的な建築作品第一号で《Appropriate Proportion(アプロプリエイト プロポーション)》と名付けられている。社(やしろ)の地下には石室を設けていて、地上と地下を光学ガラスの階(きざはし)が結ぶ。石室に入り、出口に向かうとき、四角く切り取られた空と海が見える。これはまさに杉本の代表作のひとつ「海景」のリアル版である。
展覧会には直島の護王神社の模型が展示され、模型の地下隧道(実物では隧道は直角に折れるが模型では直線)を覗くと、その先に海景が見える。この海景はシリーズ初期の作品で、日本海、隠岐の海。そう、後白河院の孫にあたる後鳥羽院(1180-1239)が承久の乱で破れ、1221年に配流される隠岐の島から見た海。それを撮影したものである。
さて、崇徳院を直島に流した後白河院のために極楽浄土を夢想して、平清盛によって建立され、のちに鎌倉期に再建されたのが〈蓮華王院 三十三間堂〉である。杉本はここの千体の千手観音像を48葉の銀塩写真に収め、《仏の海》という作品にした。
早朝の東から昇る太陽の光に一斉に照らされた観音像群を、杉本は撮影した。自然光以外の照明は一切使用していない。それこそが後白河院の見た浄土だと考えたからである。撮影許可を得るために7年、その間、2度の却下を経て、3度めの正直で、撮影が実現したという。仏像の顔が奥まで見えるよう高所からの撮影、しかも日の出から始め、庇によって日が翳るまでの短時間集中の仕事であった。撮影には2週間を費やしている。
そんなふうに展示の枠組みに思いを巡らせていたとき、今回の展覧会がオファーされるよりもずっと前に入手したひとつの瓦の断片を所有していたことを杉本は思い出した。それはこの美術館の建つ岡崎の地にあった6つの大寺院のひとつ、法勝寺の屋根に乗っていたもの。まるでこの展覧会を作ることは予め決められていたかのようだ。
今回、展覧会では初お披露目となる「OPTICKS」というシリーズがある。もともとはアイザック・ニュートンによるプリズム実験を応用し、作品にしたものだ。太陽光はプリズムを通すと分光し、七色を見せるという性質に興味をもった杉本は自分の部屋に巨大なプリズムを設置した。
冬至前後の晴天の日の早朝、東の窓から入る光をプリズムに通す。引き戸で仕切った暗い部屋(ラテン語でいうと「カメラ・オブスクラ」。カメラの語源だ)を作り、漆喰の壁に投影された色をポラロイドカメラでとらえ、一旦デジタル化して、最終的に旧来からの方式のカラープリントで仕上げたものである。
展覧会のタイトルである「瑠璃の浄土」。「瑠璃」とは仏教の七宝のひとつ、現代の言い方でいえばラピスラズリを指す。転じて群青のような濃いブルーの色名であり、さらにガラスの古称でもある。プリズムを通った太陽光から取り出される色のうち、藍の色を見て、杉本はラピスラズリや青色の古ガラスを思ったのだろう。
多彩な活動をする杉本だが、作家としてのキャリアは写真作品から始まった。写真は光をレンズによって意図通りのものにし、化学変化によって像に留めるものだ。フォトグラフは文字通り「光の絵」だが、レンズというガラス玉がなければ意図を叶えることはできない。
さらに杉本の創作には素材としてのガラスが常についてまわる。自らが構想し、設計した小田原の〈江之浦測候所〉は杉本の思考、思想、創意を形にしたスペースだが、そこにはガラスの能舞台があるし、板ガラスをカーテンのように扱った100メートルのギャラリーがある。
杉本はデュシャンピアン(マルセル・デュシャンに影響を受けた、または傾倒している者)を自認しているが、デュシャンの大作《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》(通称:大ガラス)を撮影し、自身の作品に焼き直した《ウッド・ボックス》(杉本による通称:小ガラス)があったりもする。
「瑠璃の浄土」という響き。「浄土」は仏や菩薩が住む清浄な国土のことを言い、「瑠璃の浄土」は薬師如来の土地である、はるか東にある「東方瑠璃光浄土」のことだ。いきいきと輝く三十三間堂の観音像も、東からの光を取り入れているし、分光され生まれた鮮やかな色彩の正方形も、東からの光が元である。それらが展覧会の壁を埋める理由はそこにある。そして、全体の動線の冒頭と会場内に合計3尊の薬師如来懸仏(銅製鍍金1尊、木製彩色2尊)が配置されている。
これら「東方瑠璃光浄土」を観想する壮大な展示に誘うのは光学ガラスでつくられた13基の五輪塔だ。それらは等間隔に一直線に並んでいる。五輪塔の5つの部分、地水火風空の「水」の部分にはそれぞれ異なる「海景」が仕込まれている。
この展示は美術館という場を借りて、その中にひとつの寺院を構想したものなのだという。人々が最も熱心に宗教の力を借りた平安期の末法の時代を表すため「仏の海」の展示室を作り、近代以降に生きる我々が万能と考えてきた科学の礎を作ったアイザック・ニュートンに敬意を表する展示室を作り、さらに杉本個人が蒐集した古美術や創作したものを並べる展示室を作った。千数百年の時間と、数百年の時間と、数十年の時間。それぞれの尺度で時が刻まれている。
展示は館外にもある。小川治兵衛の作庭による美術館の庭の池に杉本の設計による《硝子の茶室 聞鳥庵(もんどりあん)》が設置されている。四方の壁と天井をガラスで囲ったミニマルでコンポジティブな茶室。『ヴェネチア建築ビエンナーレ2014』の時にデビューしたこの茶室は、ヴェルサイユ宮殿トリアノン宮での展示を経て、京都に。もともと千利休作といわれる茶室「待庵」(京都・山崎)に影響を受け作ったと杉本は語るが、京都の、しかもここに在ることが当然であるかのようだ。
展覧会は3月19、20日に内覧会を開催したものの、当初21日から始まる公開はCOVID-19の影響を鑑み、オープンが4月11日まで延期となり、その後、さらに5月6日まで延期となった。
「世の中は徐々に終末に向かっていると、考えることがあります。天変地異や今回のウィルス騒動などそういうことが少しずつ積み重なっていきながら。」(杉本博司)
杉本はそんな話を折り込みながら、名ばかりは「平安」というが、戦乱や疫病などたいそう不安な時代の仏教が栄えた古の京都に思いを馳せさせ、しかし、近代以降は、科学をもって希望を見出し、災厄を乗り越えてきたことも思い出させてくれた。宗教と科学という人々の希望を「芸術」という目に見える形に昇華して提示してくれている。
京都という舞台が与えられた杉本はまたひとつ、記憶に残る展覧会をつくった。