June 19, 2017 | Architecture, Art | casabrutus.com | photo_Shin-ichi Yokoyama text_Naoko Aono editor_Keiko Kusano
坂倉準三、丹下健三、磯崎新ら戦後日本を代表する建築家たち。同じく戦後日本の前衛芸術界を代表する岡本太郎。建築家たちと密に仕事をし、自らも建築や都市計画を手がけた太郎を軸に建築史を見る展覧会が〈川崎市岡本太郎美術館〉で行われています。これまでと違う岡本太郎の顔が現れます。
《太陽の塔》を始め、各地にモニュメントや壁画を残した岡本太郎。椅子など家具も作っていた。その背後にあった建築家たちとの関わりを探るこの展覧会、建築界でも知られていなかった新発見があって面白い。
太郎と建築家との関わりは戦前にパリで会った坂倉準三が始まりだろうと思われる。坂倉は1929年に渡仏、ル・コルビュジエのもとで働いていた。太郎も同じ1929年にパリに渡り、シュルレアリスムの画家たちと交流、マルセル・モースに民族学を学ぶ。会場には1930年代にパリで撮られた彼らのツーショット写真が展示されている。
戦後、日本で太郎と再会した坂倉は1952年、日本橋髙島屋の地下通路にモザイク壁画を依頼する。これが太郎と建築家の初のコラボレーションとなった。1954年に竣工した太郎の自邸(現〈岡本太郎記念館〉)も坂倉の設計。特徴的な凸レンズ型の屋根は、坂倉の下で設計を担当した村田豊による空気膜構造のものだ。
太郎はこの頃から坂倉らが顧問を務めた「国際デザインコミッティー」に参加したり、「アートクラブ」を結成するなどしてデザイナーやアーティスト、建築家たちとの交流を深める。この会合を通じて、丹下健三とはたびたび顔を合わせていた。
岡本太郎と丹下健三の最初のコラボレーションは丸ノ内にあった〈旧東京都庁舎〉の壁画だった。モザイクだと弱い、と考えた丹下は陶板レリーフを提案する。原色の派手なレリーフ《日の壁》は都庁の移転に伴い廃棄されてしまったが、太郎は再製作できるよう、レプリカ(石膏模型)をつくっていた。残念ながらレリーフが再び甦ることはなかったが、展覧会にはレプリカが出品されている。白地に色の指示なのか、数字などが書き込まれて当時の熱を思わせる。丹下と太郎は家族ぐるみのつきあいをしていた。
会場の中心には、1970年、大阪万博の〈お祭り広場〉で太郎が作った《太陽の塔》の模型が鎮座する。丹下健三が設計した大屋根を突き破って立つ、かつての姿を再現したものだ。この大屋根と《太陽の塔》については丹下ら建築チームと太郎との間で“激突”があったとも伝えられているが、太郎が参画した時期には、既に先行して穴の開いた屋根の模型が発表されていた。彼らの衝突は後に作られたドラマの可能性もある。
丹下は1964年の〈国立屋内総合競技場〉でも太郎と協働している。ル・コルビュジエの流れを汲むモダニズム建築を標榜した丹下と、縄文文化を称揚した太郎とは、一見、方向性がまったく違うようにも感じられる。丹下は鉄筋コンクリートによる〈香川県庁舎〉で日本の古建築を引用し、議論を巻き起こした。日本の伝統に対してフランス仕込みの民族学的な視線を向ける太郎に、丹下は何か重要なものがあると感じていたのかもしれない。
展覧会が開かれている〈川崎市岡本太郎美術館〉には太郎が作ったという謎の浴室の写真が残されていた。これはアントニン・レーモンドが設計した〈デッブス邸茶室〉に太郎が作った浴室だ。長年、詳細が不明だったが今回の展覧会の準備のため調査していたところ、レーモンドの事務所で図面を発見。ようやく全貌がわかった。
レーモンドは1888年生まれ、1911年生まれの太郎とは世代も育ちも違う。結局、二人のコラボレーションはこの1件のみだった。レーモンドは1955年に目白の〈聖アンセルモ教会〉で太郎に壁画を依頼しているが、実現していない。作風があまりに違いすぎたためかとも思われる。こんな二人だが仲は良く、1962年から10年ほど太郎は毎夏、レーモンドが滞在していた軽井沢の夏のアトリエを訪ね、フランス語で楽しそうに会話を交わしていたという。
磯崎新と岡本太郎の出会いは、磯崎が丹下研究室に在籍していた頃だった。1957年、雑誌『総合』に太郎が「ぼくらの都市計画」を発表するために丹下に協力を仰いだところ、多忙だった丹下は当時、大学院生だった磯崎を派遣した。展覧会場には太郎が考えた人工島「いこい島」のスケッチと、同時期に丹下が構想した「東京計画1960」が並ぶ。整然とした「東京計画1960」と「いこい島」の手描きのイラストとが対照的だ。
磯崎が1963年に独立後、初めて手がけた仕事も太郎とのものだ。1964年、池袋西武百貨店で行われた「岡本太郎」展の会場構成を担当したのだ。壁は真っ黒、彫刻は床にそのまま置いている。そこに赤い照明を当てるというものだった。太郎の代表作《坐ることを拒否する椅子》は壁からにょきにょき生えていた。この展覧会は異例の入場者数を記録し、太郎の名を広く知らしめることになる。
1968年に竣工した〈マミ会館〉は太郎の設計により、唯一実現した建築だった。住居兼フラワーデザインの教室として作られたものだ。巨大な角から床と天井が大きく張り出している。その下には脚のような支柱が2本立っている。惜しくも2002年、〈マミ会館〉は取り壊されてしまった。太郎の作った空間で過ごすのはどんな感じだったのか、今では確かめることができないのが残念だ。
「太郎の都市計画には遊び心が感じられる」と会場構成を担当した藤原徹平は言う。
「太郎の『いこい島』には競馬場と美術館とが同居するカオスがある。混乱が招かれることが重要だったのではないかと思うんです。太郎は人の活動の場に興味があったのでしょう」
太郎のこんな姿勢は、形式的なメタボリズムからは距離を置いた磯崎新と相通じるものがあったのかもしれない。ややもすれば官僚的な丹下健三の「東京計画1960」とは、その意味でも対照的だ。
「磯崎さんは太郎と深いレベルで共感しあっていたのだと思います」(藤原)
太郎自身が建築や都市計画を手がけ、建築家たちと深くかかわったのは1950年代から1970年ごろまでのこと。この頃のプロジェクトからはアートと建築とがさまざまに関わり合い、絡み合っていった様子がわかる。その後も太郎が建築との関わりを続けていたら日本の建築はどうなっていたのか、考えてみるのも面白い。戦後、日本建築のスターたちが多数登場するこの展覧会から、建築史の知られざる側面が見えてくる。