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いち早くパリに愛された髙田賢三の仕事を追う展覧会が、東京オペラシティ アートギャラリーで開催中。

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August 4, 2024 | Fashion, Design | casabrutus.com

2020年10月、髙田賢三がパリ郊外で亡くなったというニュースが世間を驚かせた。髙田が立ち上げたブランド〈ケンゾー〉は現在、NIGO®がアーティスティック・ディレクターを務めることで知られる。三宅一生、川久保玲、山本耀司、阿部千登勢ら、世界的に活躍する日本のファッションデザイナーに先駆けたパイオニアの功績はどのようなものか。作品を通じて、その世界観を掘り下げる展覧会が〈東京オペラシティ アートギャラリー〉で開催中だ。

会場の入り口には髙田のシグネチャーの一つ、花柄をあしらったグラフィックが用いられる。

1964年11月30日、横浜港からフランスへ向かう船内に髙田賢三はいた。海外渡航が自由化され、東京オリンピックが開催された年のことだ。それまで住んでいたマンションが立ち退きとなり、その立ち退き料を元手に髙田はフランスへ旅立った。帰国を定めることなく、やがて学生運動で揺れるパリを体感しながら創作を続けていく。「賢三さんが亡くなられたいまだからこそ、客観的な検証が必要であると感じました」と話すのは、担当学芸員の福島直だ。

「ブランドではなく、髙田賢三その人に焦点を当てる展示です。そのために年表とともに作品を展示する構成としました。良好な状態で残っている賢三さんの作品は多くありませんが、後世へ伝えるために資料性も持たせた展示です」(福島)

髙田はショーのフィナーレでウエディングドレスを発表し、そのシーズンの集大成とした。これは1982-1983AWに発表された花をテーマとするドレスで、ピンクの薄い生地に20種類以上の花柄のリボンを縫い合わせている。

髙田は現地で働きながら、自身のデザイン画をブランドやブティックに売り込んだ。それが評判となり、1970年に自身の店「ジャングル・ジャップ」を開く。モデルが服を着て観客に見せるショー形式のプレゼンテーションは大きな話題を呼び、現在のコレクションショーの先駆けにもなった。髙田は店を立ち上げるために日本へ帰国し、そこで日本の布を買い集める。この時に制作した服の一点が、雑誌『ELLE』の表紙を飾った。

会場に並ぶ髙田の作品はいずれも華やかだが、姫路の花街に生まれた髙田は幼少期からそうしたものを愛した。自叙伝『夢の回想録 髙田賢三自伝』でも、「座敷から小粋な長唄や三味線の音色、芸者の嬌声がほのかに聞こえてくる。友禅、紡、縮緬……。私は和箪笥や押し入れにしまわれた鮮やかな反物や毛糸玉で遊んでいるのが好きだった」と書いている。

「賢三さんを知る方はみなさん、とても楽しい方だったといいます。わかりやすい名言や考えを多く示したわけではありませんが、最初期から身体を衣服から解放するというテーマは不変です。髙田さんが渡仏した時期はオートクチュールが一般的で、プレタポルテ(既製服)へと移行する過渡期にありました。その意味で、誰が着ても様になる服というのは非常に新しい存在だったのです。最初期に日本の布に焦点を当てたのは偶然ではなく、ヨーロッパの服作りにはない要素から衣服を見直すことに自覚的だったのだと思います。賢三さんはさまざまな国の民族衣装をモチーフとしたことで知られていますが、それらの裁断や縫製に共通項がある点にいち早く気づいています。会場では着物をモチーフとした作品も展示していますが、ある程度体型を問わずに楽しめる服とすることで衣服の自由度を高めたい、いろいろな人が素敵に着こなせる服を作りたい、との思いが生涯のクリエイションに通底していたように感じます」(福島)

こちらは1970年代の仕事を中心に、髙田の代表作を紹介。半世紀前の仕事とは思えぬほどに現代的なデザインは、時代を超える力を感じさせるものばかり。
左は1972SS、右は1976SSに発表したドレス。日本の生地を用い、冬に木綿素材を扱うなど新たな提案を行った。この二点も袖の表現が異なり、ディテールの追求にも余念がなかったことがわかる。

こうして髙田の快進撃が始まる。フランスへ渡航する船が立ち寄ったアジアや中東などの各地での体験が、のちのアイデアに繋がったと語っている。それを原点に広がったフォークロアなスタイルが髙田の代名詞となる。なかでも1970年代のクリエイションは評価が高いが、すでに世界各国の民族衣装からインスパイアされた作品を発表しており、そこにさまざまな手仕事の美しさを見ることもできる。

「特に70年代はやりたいことをすでにやりきったと自ら語るほどの充実ぶりで、さまざまなものを生み出しています。パリはいいものは貪欲に取り入れていく雰囲気があるから好きなのだとも発言しています。そして、その祝祭的で楽しいムードを作りだすために努力を惜しまなかった人です。旅に出てはいろいろなものを吸収し、次のコレクションに生かしました」(福島)

大きく二つの会場に分けて構成されるが、途中では髙田が外部より依頼された仕事を紹介。
1987年には日本でショーを開催。写真は山口小夜子らのサインが書かれたスタッフウェア。

会場は大きく2章で構成され、後半は1980年代以降を中心に扱う。その間で、自身のブランドのクリエイションではないショーや舞台の衣装なども紹介される。1980年代になるとオリジナルの生地を用いた、髙田を象徴する花柄も多く登場する。多色を扱いながら、そのビビッドな色使いは上品だ。

「花柄へのこだわりはとても強く、決定稿まで何度も繰り返し描いたといいます。初期は資金的に難しかったものの、わりと早くからオリジナルの素材を作れていたようです。そしてそれは賢三さんを支える技術者の力がなくては為しえませんでした。もしかすると展示をご覧になって普通だと感じる方もいるかもしれません。しかしそれはいまみなさんが着ているものを、この時代に先んじて賢三さんが発表したからだといえます。もはや一般的な形になるほどまでに賢三さんの作ったシルエットは大きな影響を与えました」(福島)

1980年代から1990年代の仕事を中心に、花柄、フォークロアなど、そのクリエイションの中心にある表現の数々を紹介する。
ひとえに花柄といっても、実に多彩な表現に挑んでいたことが多くの展示品を通じて見て取ることができる。

それはまた、いまや一般的となったジェンダーレスな感性にもいえる。福島は「賢三さんはボディコンシャスな女性像ではなく、女の子が少年のような感覚で着こなす雰囲気を好みました。だからこそ当時の若い女性のあいだで大きな人気を獲得したのでしょう」という。

1983-1984AWで発表した日本の丹前をモチーフにしたコートはレディースのアイテムだが、ショーでは男性モデルが着用した。今回の展示でも女性モデルのマネキンには大きかったため、男性のマネキンを使用したという。髙田は1980年代にメンズのコレクションも始めているが、発表した作品の数々は「男性女性関係なく、ファッションを楽しんでもらえたらいいとの思いもあったのではないかと思うほど」と福島はいう。

時代を先駆け続けた髙田のクリエイションは見るほどに奥が深く、なにより心を躍らせるものだ。貴重な作品の数々をぜひその目で確かめてほしい。

『髙田賢三 夢をかける』

国内外でコレクションされる髙田の作品の数々を多数展示。幼少期から晩年までの足跡を追い、そのスケッチや肉声インタビューなども紹介する。〈東京オペラシティ アートギャラリー〉東京都新宿区西新宿3-20-2東京オペラシティタワー3F。TEL 050 5541 8600。〜2024年9月16日。11時〜19時。月曜休館(祝日の場合は翌火曜日。8月4日は全館休館日)。一般1,600円。

髙田賢三

1939年兵庫県生まれ。神戸外国語大学に進学するが、中退して文化服装学院に入学。1960年文化服装学院在学中に「装苑賞」受賞。卒業後は国内企業の勤務を経て、1965年に渡仏。1970年にパリのブティック「ジャングル・ジャップ」をオープン。ブランド名を〈ケンゾー〉に変え、1999年に同社のデザイナー職を引退。その後もデザイナーとしての活動を続け、2020年死去。

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