April 12, 2024 | Travel, Architecture, Art, Design | casabrutus.com
ドイツの中で見るべき建築が豊富な都市はデュッセルドルフと聞いて、意外に思う人も多いだろう。実は昔から新しいもの、スタリッシュなものを受け入れて来たこの街には、世界的建築家による建築から既存の建物をリノベーションした好例、そして現在進行中のビッグプロジェクトまで、注目のトピックがたくさん。街の歴史をひもときながら、建築都市・デュッセルドルフを探索してみよう。
1999年、フランク・ゲーリーが設計したビル〈Neuer Zollhof〉が竣工した時、デュッセルドルフの人々は半ば熱狂的に見学に訪れた。それはライン川から引き入れて造られた港の一角で、80年代にいくつかのテレビ局があったことからメディエンハーフェン(メディアハーバー)と呼ばれる地区の運河沿いにある。日本だったらさしずめ人気のタワーマンションでも建ちそうなロケーションだが、条例で住居は建てられないため、再開発の始まった90年代からオフィスビルや商業施設が続々と建てられていった。
以前から空き倉庫に広いスペースが必要なアーティストがアトリエを設けたりしてはいたものの、デュッセルドルフの街の中心から少し離れたこの地域に、テナントを、それもできればメディア関連のクリエイティブな借り手を呼び込むためには何が必要なのか。そのひとつの解がデザインであったことは、ここに建てられたビルの設計者を列挙すれば一目瞭然だ。デイヴィッド・チッパーフィールド、スティーブン・ホール、槇文彦、レンゾ・ピアノ、そしてフランク・ゲーリー……。世界的に活躍する建築家だけでもこの顔ぶれで、うち4名はプリツカー賞の受賞者というのは、なかなか他では見られない。
デュッセルドルフの街づくり
デュッセルドルフは人口で言うとドイツで7番目の規模だが、なぜ有名建築家による現代建築が建ち並ぶようになったのだろうか。もちろん、その背景には豊かさがある。豊富な石炭を有するルール工業地帯の南西部にあるデュッセルドルフは“ルール地方のデスク”と言われ、ルール地方で製造業を営む企業の本社機能が集まっている。またライン川沿いという地の理があり、人やモノ、金が集まる場所として、ファッションやデザイン、アートなどの見本市も1920年代から開かれてきた。
それだけに第二次世界大戦では激しい爆撃を受け、古い街並みの多くが失われたが、復興は国内の他の都市よりも早かった。それは美観や暮らしやすさよりもスピードや効率を重視した街づくりだったが、方針が変わって来たのが、90年代だ。
「市の強力な推進により、自動車がひっきりなしに行き交うライン川沿いの大通りを2キロメートル以上に渡って地下化し、地上を遊歩道にしました」(デュッセルドルフ市都市計画課 カイ・フィッシャー)
これがターニングポイントとなり、デュッセルドルフはより美しい都市へと変貌をし始める。メディエンハーフェンはこの遊歩道の南端にあり、遊歩道が整備されるのと歩調を合わせて再開発が始まった。もとよりデュッセルドルフは、ドイツでは現在でもファッションの中心地と知られていて、人々はお洒落なもの、新しいものが大好き。比較的保守的なお国柄と言われるドイツで、斬新なものを受け入れる下地がすでにここにはあったのだ。
メディエンハーフェンの再開発が始まるはるか前の1960年、ドイツ初の高層ビル〈Dreischeibenhaus〉がデュッセルドルフに誕生したのも、こうした背景があってのことだろう。この高層ビルが位置する市の中心地、ケー・ボーゲンは、デュッセルドルフの街づくりの象徴的な場所だ。以前は高速道路の高架が頭上を覆い、地上にはトラム(路面電車)が走る非常に騒々しい場所であったのだが、15年ほど前から高架を取り払ってトラムを地下化し、人々が息をつけるような空間を出現させている。
高層ビルの隣には、1969年に竣工したバウハウス様式を思わせる劇場〈Schauspielhaus〉があり、2020年に竣工したショッピングセンター〈Kö Bogen II〉のファサードには大胆な植栽が施されている。3万株の木が植えられており、これはヨーロッパで最大の規模だという。
設計はコンペティションで勝った地元デュッセルドルフを拠点とするクリストフ・インゲンホーフェンで、彼は〈虎ノ門ヒルズ〉ビジネスタワーとレジデンシャルタワーの設計でも知られている。このビルと地下で繋がる隣のビルはダニエル・リベスキンドによる同系列のショッピングセンター〈Kö Bogen I〉で、このビルから市の中心部をエクステンションする形でこの地区のリデザインが始まっている。
デュッセルドルフはヨーロッパの中ではパリやヴェネチアにように古い街並みはほとんど残っていないものの、60年代や70年代の建物を生かしつつ、それと調和する新しさを加えていく街づくりがされている。共に戦後に復興した日本だが、スクラップ&ビルドで古いものを壊し、すべて新しくしてしまう街づくりとは考え方の根本が違う。
この付近には高級ブランドが建ち並ぶ有名なショッピングストリート〈ケニヒスアレー〉があるが、そこに架かるサンティアゴ・カラトラバ設計のアーケード〈Caratlava-Boulevard〉の建設が予定されており、その通り沿いにあるHSBC銀行の本社ビルだった建物をデイヴィッド・チッパーフィールドが増改築するプロジェクト〈Trinkaus Karree〉も進行中だ。どちらも既存の建造物を生かしつつ、機能や景観をアップグレードするもので、デュッセルドルフがますます魅力的になるのを後押しするだろう。
建築とアート、自然の融合。
デュッセルドルフに来たら、ぜひ郊外にも足を伸ばしてみてほしい。街の中心地から車を30分ほど走らせた一見何もない田園地帯に、建築とアート、自然を融合させた壮大なテーマパークのような〈インゼル・ホンブロイヒ美術館〉が出現する。1987年にオープンしたこの美術館は、不動産業者でアートコレクターのカール=ハインリヒ・ミュラーが、自身のコレクションを展示する目的で21ヘクタールにも及ぶ土地を入手し、1人のアーティストに1つの展示空間を設けるべく、様々なパビリオンを建てたものだ。
ポール・セザンヌ、アンリ・マティス、レンブラント・ファン・レイン、アレクサンダー・カルダー、アルベルト・ジャコメッティ、イヴ・クライン、グスタフ・クリムト、ハンス・アルプ(ジャン・アルプ)、エドゥアルド・チリーダら西洋の有名作家による作品からアジアの古美術品まで幅広いコレクションが展示され、造形作家エルヴィン・ヘーリッヒによるパビリオン自体も1つの作品になっている。自然の中に点在する彫刻のような建築のようなパビリオンを、一つひとつ訪ね歩くのは特別な体験だ。
1994年、ミュラーは近接するNATOのミサイル基地だった敷地を買い増しし、さらに構想を広げた。彼にとって「ホンブロイヒとは、美術館の建設だけを意味するのではなく、これまで社会で軽視されてきたように思われるあらゆるアイデアや物事を、新しい形で生きていくという試み」を意味していたという。ここは美術館であると同時に、アーティストが住み新しい活動をする場として、常に実験的な場所でありたい。そのため、ア—ティストや他のコレクターにも広く門戸を開いたのだ。
その1つとして誕生したのが、安藤忠雄設計の美術館〈ランゲン財団美術館〉だ。ミュラーに招かれた安藤が彼の計画に触発され発想した建築モデルを、アートコレクターのマリアンヌ・ランゲンが見て、「私がこれまでに購入した中で最大の芸術作品」として建設を決めたという。安藤建築としては珍しくガラスのファサードが印象的な建物の大部分は地中にあるが、静謐な通路を渡り階段を下りて行くと自然光溢れる大空間に出会う。
付近には他にも、ドイツ在住のアーティスト西川勝人やオーストリアの建築家ライムンド・アブラハムらによるパビリオンや建物が多数点在する。2009年にはアルヴァロ・シザによる〈Siza Pavillion〉、2016年にはデュッセルドルフを拠点とするアーティスト、トーマス・シュッテが〈Skulpturenhalle(彫刻ホール)〉をオープンした。
彫刻や水彩、ドローイングなど多彩な作品で知られるシュッテは、建築模型のような作品も数多く発表しており、このホールもそうしたアイデアが元となっている。逆さに広げた傘のような屋根が外壁に内包された柱に乗っているため、内部の空間には一切柱がないというユニークな構造で、これはシュッテがマッチ箱とポテトチップ(!)で作った建築モデルから、ずっと持ち続けていた構想だという。
ちなみに、彼のアトリエ(ヘルツォーク&ド・ムーロン設計)はデュッセルドルフ市内にあるのだが、〈Skulpturelhalle〉には大きな彫刻作品が多い彼の作品の収蔵庫を地下に、そして絵画に比べ作品の発表機会の少ない彫刻家のためのエキシビションスペースを地上階に設けている。
〈Skulpturenhalle〉の周囲の草むらのそこここに、シュッテの彫刻作品が置かれているのも楽しく、敷地全体で壮大な建築の実験をするかのように進化し続けている。
デュッセルドルフではこれからも、楽しみな計画が目白押しだ。市の玄関口とも言える西部には、安藤忠雄の設計による大規模複合施設でハイアットホテルも入る予定の〈Ando-Campus〉が進行中で、またMVRDV設計の集合住宅〈Grüne Mitte〉も注目されている。5年後、10年後にはデュッセルドルフはどんな街に変化しているのか。来る度に新しい発見がありそうだ。