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【本と名言365】吉田五十八|「いまの日本建築は、…」

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March 11, 2024 | Culture, Architecture | casabrutus.com

これまでになかった手法で新しい価値観を提示してきた各界の偉人たちの名言を日替わりで紹介。伝統的な数奇屋造を近代化し、昭和の時代に多くの名建築を遺した吉田五十八。彼が生涯探求した「伝統的な建築様式の近代化」は、ヨーロッパへの遊学で見出したものだった。

吉田五十八/建築家

いまの日本建築は、ただ祖先の遺産にすぎない。それに近代性を与えることで、新しい感覚の日本建築が生まれるに違いない

「新興数奇屋」、または「近代数奇屋」を確立した建築家・吉田五十八。生活様式の西洋化とともに、新鋭建築家たちが近代建築=モダニズムに傾倒していた昭和の初頭に、西洋建築によって近代化するのでなく、日本伝統の建築様式そのものを近代化させることを目指した稀有な建築家である。吉田が確立した「新興数奇屋」の特徴は、柱の面に壁をつけて柱を隠しフラットで自由度のある壁面を作る「大壁造(おおかべづくり)」や、欄間の装飾の廃止など数多いが、それらの多くは数奇屋造の伝統的部材を隠し、「線の多さ」を消し去るための試みであった。余談だが、ブルーノ・タウトが賞賛した京都の「桂離宮」を、ル・コルビュジェが「線が多過ぎる」と評したのは両モダニストを語る上で有名なエピソードだ。

線を外すことで明るく、すっきりとした「現代的な和風建築」を作り上げ、戦後はその思想を鉄筋コンクリート造へと発展させ、住宅だけでなく「歌舞伎座(第4期)」や「五島美術館」「大阪ロイヤルホテル(現・リーガロイヤルホテル)」など数多くの施設を手がけた。

名言に引用したのは、大学卒業後の1925年、表現派を目指していた吉田がヨーロッパ周遊でルネサンスやゴシックなど古典建築の名作群に強い感銘を受け、自身の使命を見出した時の言葉。「祖先の遺産に過ぎない今の日本建築で西欧の名作と対抗するのは難しい。それを“遺産から自身の資産”に引きもどさねばならない」と。何世紀もの伝統と民族性からなる西洋建築を模倣するだけでは本物に敵う訳はなく、日本にとって真の近代化にはならない。吉田の考えは約100年経った今も色褪せず響いてくる。

戦後の料亭や旅館、ホテルなどでこの「新興数奇屋」に影響されていないものは数少ないだろう。鉄筋コンクリート造を導入し、テーブルセットが置かれる洋間と融合させた空間は、「モダンで洗練された日本建築」として世界的に愛されている。吉田の試みがなかったら、日本の現代の風景はおそらく違ったものになっていただろう。それほどまでに「日本らしい美しさ」を失うことなく進化させた彼の功績は大きい。

日本の近代建築に大きな影響を与えた「新興数奇屋」(「現代数奇屋」とも)の創始者である建築家・吉田五十八の初の評伝。小林古経邸、吉屋信子邸、歌舞伎座(第4期)、明治座、玉堂美術館、大阪ロイヤルホテル(現・リーガロイヤルホテル)など、住宅から劇場、ホール、料亭など数多くの名作を手がけた吉田の79年の人生を追う。初版は1991年、本書は筆者の新たな「あとがき」を追記した第4刷。『建築家吉田五十八』砂川幸雄著 晶文社 2500円/2001年。

よしだ・いそや

1894年東京都日本橋生まれ。「太田胃散」の創業者・太田信義の第8子として生まれ、五十八(いそや)の名は父が58歳の時の子であることに由来する。東京美術学校に進学、建築家・岡田信一郎の元で学ぶ。1925(大正14)年、兄の援助を受けヨーロッパを巡り、イタリアなど各地に残るルネサンス、ゴシックの古典建築に大きな感銘を受け、日本の伝統建築の近代化を志す。「昭和の名建築」と評される作品を多数遺し、「東京芸術大学」教授も務めた。1952年に日本芸術院賞、1964年に文化勲章を受章。1974年、79歳で逝去。

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