October 21, 2023 | Culture | casabrutus.com
これまでになかった手法で、新しい価値観を提示してきた各界の偉人たちの名言を日替わりで紹介。一生をかけて釉薬と土の研究し、新しい陶器を生み出し続けた河井寬次郎。柳宗悦、濱田庄司とともに日本の民藝運動の中心人物としても知られる河井が綴った言葉。
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新しい自分が見たいのだ──仕事する
島根県の大工棟梁の息子として生を受けた河井。幼い頃から陶器に興味を持ち、中学2年生の時に医者をしていた叔父から言われた「陶器をやったらどうだ」という言葉で陶工になることを決意した。
「こと美に関すること以外、全然タッチしたくない」と、工業高校時代に基礎科学や応用化学などの学問があったが、あまり真面目には取り組まず、物理の実験では「煙が紫色にたったりするその現象の美しさに見とれていて、科学の本質をつかむことはできなかった」と述べている。学生時代、周囲の友人たちは大企業の技師を目指していたのに、一人で陶器を作ろうとこつこつと研究していた河井は変わり者と思われていた。
そんな時、河井の心を打つ衝撃的な出会いがある。バーナード・リーチだ。1911年21歳の時にリーチの展覧会で、その新鮮さに驚かされ、以後交流を深めることになる。卒業後は、京都市立陶磁器試験場の技手として釉薬の研究を行い、ここで濱田庄司との出会いを果たす。1920年30歳の時に窯を譲り受け工房と住居を整え、翌年の「第一回創作陶磁展観」で陶芸界にデビュー。「天才は彗星の如く突然現れるゝものである」と評論家にいわしめた。陶芸作家としての活動は順風満帆に思えたが、河井はその名声に煩悶していた。1924年、河井34歳の時、濱田を通して柳宋悦の存在を知る。
1926年、河井36歳の時、濱田、柳とともに「日本民藝美術館設立趣意書」を作成し、配布。「民藝」という言葉を世の中に知らしめ、自身の作陶でもその考えを追究していく。そして1931年に『工藝』を発刊、1936年の日本民藝館設立に尽力した。
世界の陶芸を視察し、土と釉薬の研究に勤しみ、手を動かしろくろを足で蹴りながら美について探究していった河井寬次郎。「すべてのものは自分の表現」(「いのちの窓」より)という言葉からもわかるよう、主たる創作は陶業だが、自宅(現在記念館)の設計を始め、晩年は木彫や真鍮のキセルを制作、戦時下で窯が立てられない時にはもっぱら文筆に没頭し、創作や美、仕事にまつわる多くの言葉を遺した。
「新しい自分が見たいのだ──仕事する」という言葉については、自身で「繰り返しなんかには用がない」「どんな強いられた仕事であっても、次々により新しい自分を見ようとして引きずられているのだ」と解説している。労働における美の自覚について常々語っていた、彼の創作の根本概念を表している(参考文献『蝶が飛ぶ 葉っぱが飛ぶ』講談社文芸文庫)。
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