May 16, 2024 | Art | casabrutus.com
《空間の鳥》などで知られる彫刻家、コンスタンティン・ブランクーシ。日本の美術館では初めての包括的な個展が東京・京橋の〈アーティゾン美術館〉で開かれています。彫刻、写真、映像に至るまで、彼の足跡が辿れる展覧会です。
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コンスタンティン・ブランクーシは1876年、ルーマニアのホビツァという町で生まれた。首都ブカレストで学んだ後1904年にパリに出て、短い間ロダンの助手を務める。独立後はアフリカ彫刻などの要素を巧みに取り入れた作品で独自の道を歩んだ。この展覧会は初期から晩年までをたどる日本の美術館では初めての機会になる。形態にも素材にもさまざまな可能性を追求した彼の探究心が伺える。
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展覧会タイトルにある「本質」という言葉は《空間の鳥》に関してブランクーシが語った「飛翔の本質を表現したい」という文章を思わせる。が、「他のテーマについてもブランクーシのアプローチの仕方は同様かと思います」と展覧会を担当したアーティゾン美術館の学芸員、島本英明さんはいう。
「“本質”という言葉はブランクーシの作品全体に敷衍(ふえん)できるものではないかと考えて、“本質を象る”という展覧会タイトルをつけました」(島本さん)
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展覧会は初期の具象的な彫像から始まり、次に《接吻》《眠れるミューズII》など抽象化が進んだ時期の彫刻が紹介される。彼自身が撮影した自作の彫刻やアトリエの写真、セルフ・ポートレイト、交流のあったマルセル・デュシャンやモディリアーニ、一時期、助手を務めていたイサム・ノグチなどアーティストたちの作品も登場する。
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今回の展覧会ではブランクーシのアトリエの光が実際に感じられるスペースが設けられている。アトリエに実際にあった大きな天窓に見立てて展示室の天井近くに特設の面照明を設置し、フラットな光が斜め方向に降り注ぐ空間を作り出した。
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「美術館では作品にスポットライトをあてたりすることがありますが、ブランクーシはそういった光のもとで彫刻を見ていたわけではありません。ここでは空間を同じ質で満たす光を目指しました。光は一方向からあたるので反対側には影ができますが、これも彼の作品を自然な形で見せたいと考えた結果です」(島本さん)
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ブランクーシは光だけでなく、彫刻が置かれる台座にも大きな関心を持っていた。アトリエの光を再現した展示室でも、彫刻はそれぞれ異なる台座に置かれている。島本さんはブランクーシが台座について、ロダン以降の大きな革新を行ったという。
「西洋において従来、台座は彫刻を作品として顕示すべく機能してきましたが、ブランクーシはその台座を作品の一部として取り込みました。この展覧会には出品されていませんが、《無限柱》などは台座だったものを引き延ばして作品化したものであり、台座のみで成立している彫刻だとも考えることができます。彼の作品には鋭角的なもの、丸いものといったいろいろな性質のフォルムのエッセンスが取り出されて組み合わされています。また木や大理石など違う材質のものを積み重ねられてリズムをなすこともある。ブランクーシにとって構造の一番上に来る彫刻が特別な意味をもっていたことは紛れもありませんが、その周辺の要素についても、彼は自らの手の刻印を残さずにはいられなかったのです」(島本さん)
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ブランクーシは作品の多くを売らずに手元に置いていた。彼は自らの死後、その作品を遺贈するとともにアトリエを保存してほしいという遺言を残している。フランス政府はその遺言に従って、1962年にパリの〈パレ・ド・トーキョー〉の内部にアトリエを移設、その後、1977年にレンゾ・ピアノの設計で〈ポンピドゥー・センター〉の前庭に彼のアトリエを再現した〈アトリエ・ブランクーシ〉をつくった。
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「彼にとってアトリエの内部空間とは彫刻があり、その彫刻が相互に連関しあって成立するものなのでしょう。また彼は複数の彫刻をグループとして、組み合わせのようなものとしてとらえていたようにも思います。自分が生み出したものを集めて、自分自身の創作をトレースしていたのかもしれません」(島本さん)
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展覧会場には青い背景の前に《雄鶏》が、赤い背景の前に《空間の鳥》が置かれた一角がある。ブランクーシのアトリエは白一色であり、服も白いものを好んで着るなど、彼は白という色にこだわりを持っていた。しかしアトリエを撮影したモノクロ写真には着色した壁が写っており、パリの〈アトリエ・ブランクーシ〉にも同様の壁がある。このことに関してブランクーシの発言は残っていない。が、彼にとって彫刻と空間の関係において色も重要な要素の一つであったことをうかがわせる。
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会場ではアトリエでの友人たちの様子などを撮った動画が投影されている。1930年ごろにルイス・ブニュエルの映画が公開されたときはいち早く試写会にかけつけたともいう。
「彼は世界を動的にとらえること、彫刻を動かすことにも関心があったようで、《レダ》という彫刻では蓄音機のモーターやメカニズムを応用して動かしていました(※この展覧会では動かさずに展示している)。彼は『本質』とは動的なものであって、滅びたり衰えたりしない力そのものであり、彫刻も動いてもいいのでは、と考えたのかもしれません」(島本さん)
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ブランクーシの彫刻は一見もの静かで、饒舌に何かを語るというイメージはないかもしれない。しかし見る者が何かを問いかけると、小さな声で“返答”してくれる。それはブランクーシがアトリエで重ねた熟考と思索の跡なのだ。