October 12, 2023 | Culture | casabrutus.com
これまでになかった手法で、新しい価値観を提示してきた各界の偉人たちの名言を日替わりで紹介。資生堂の企業広報誌『花椿』のアートディレクターを40年務めた、唯一無二のビジュアルを作り出すデザイナー仲條正義のデザイン哲学。
遊びがデザインの潤滑油になる。理屈だけのデザインは退屈だ。
生まれは東京、1933年。大工の子どもとして生を受けた。中学時代に美術の先生と出会い、美術部へ。先生からの影響で画集や雑誌などを読むようになる。絵ばかり描いていた仲條は、運良く芸大の図案科へ入学した。だが、当時のアカデミックなデザイン教育には興味がなく、なんとか4年で卒業したものの優秀な学生というわけではなかったようだ。美術部時代から様々な雑誌や展覧会で情報を得ており、目が肥えていた仲條は、プロのグラフィックデザイナーになることを決意する。
卒業後は資生堂に入社(1956年)し、宣伝部で雑誌広告などのデザインを担当する。当時の資生堂では、山名文夫や中村誠が辣腕を振るっていたが、仲條はここでもそんなに真面目な社員ではなかったようだ。仕事はそんなに面白いものではなかったが、バイタリティはある。仲條は、芸大時代の友人たち(福田繁雄、江島任)と三人展を開いたり、アルバイトに精を出していた。資生堂は3年で辞めてしまった。その後、河野鷹思の事務所デスカから誘われたが、そこも1年程で辞める。27歳で仲條はフリーランスになってしまったのだ。
仲條デザイン事務所を立ち上げて数年経った1967年、仲條のところに『花椿』の話が舞い込む。資生堂時代に宣伝部で一緒だった村瀬秀明とともに、デザインを担当することになった。エディトリアルも写真も好きだった仲條は水を得た魚のようにデザインに没頭した。
長年『花椿』の編集長を務めた平山景子は、仲條の雑誌作りについて、
「仲條さんは『千文字で語るよりも一枚の写真で伝えよう』『一ページのなかに一〇ページ分の材料を入れる』とよく言っていました」と語る。それが、一度見たら忘れられない、鮮烈なイメージに結実。仲條にしか出せない、『花椿』独特のスタイルを生み出したのだ。
仲條のデザインを一言で語るのは難しい、と彼をよく知る人たちは言う。「遊びがデザインの潤滑油になる。理屈だけのデザインは退屈だ。」とインタビューで仲條も語っているが、最初の設計がしっかりしているということが大前提ではありつつ完璧主義を嫌い「必ずわざとどこか外して小さな破綻を起こす」と語る。『花椿』のファッションビジュアルやポスター、ロゴ等、仲條のデザインしたものを見るとカッコいいなと思いつつも顔がほころんでしまうのは、その「遊び」ゆえなのか。と仲條のデザインを前にして、頭で考えたり、言葉で語ったりしたくもなるが、それは野暮というものだ。彼のデザインはヴィジュアルで語るものなのだから。